950(1554)_==天文23年==(最新版)

>_<あくまでも司空が各種資料に基づき独自に調査した結果ですので、誤りがあっても司空は一切の責任はとりません。>_<
>_<ご利用に際しては、解説・注意をご確認の上、各人で十分に史実をご確認ください>_<


 天文23年(1554)1月1日、本願寺証如が、夜明け頃、腹痛を訴える。
 天文23年(1554)初頃?、石見津和野三本松城主吉見正頼(おそらく大内方)が陶晴賢討伐のため挙兵。⇒大内氏重臣陶晴賢がこれを討伐するため出陣。
 天文23年(1554)2月12日、室町第13代将軍・足利義藤が義輝に改名。近江朽木で流遇中。
 天文23年3月初旬、北条氏康が、今川義元の三河侵攻の隙を突いて駿河へ出兵し、今川との盟約により、武田晴信が援軍を差し向け、駿河の刈屋川(静岡県富士市加島)で激戦を展開。//今川氏の宿老大原雪斎の斡旋で、武田氏・今川氏・北条氏が瀬古の善徳寺(富士市今泉)で和約を締結。//晴信の娘を氏康の子氏政に、氏康の娘を義元の子の氏真に嫁がせることを決める(善徳寺の会盟。
 天文23年(1554)5月、毛利元就が陶晴賢討滅のため挙兵>このとき陶晴賢は石見三本松城主吉見正頼を攻めていた。
 天文23年5月4日、実従(浄土真宗、蓮如の実子)が「蓮淳葬送中陰記」を書き写す。
 天文23年5月、周防の陶晴賢が、安芸の毛利元就に対して、石見への派兵を要求。
 天文23年5月12日、毛利元就が、主人大内義隆を殺した陶晴賢に対し、安芸の吉田郡山城で挙兵。天文23年8月2日、本願寺証如が、天文5年元旦から書き続けた日記を病のために筆をおく。//その後、危篤となる。
 天文23年8月12日、本願寺証如の嫡男茶々(顕如)が、証如の病を受け、急ぎ剃髪し、証如自身が自ら剃刀を当てて、法名(顕如)を与える。また、その日に本寺である青蓮院に使者を出し、大坂から上洛する時間がない旨を伝える。
 天文23年8月、本願寺証如が、逝去。享年39歳。//本願寺顕如(12歳)が第11代宗主となる。//大方殿と呼ばれる祖母の慶寿院が宗務を見て、順興寺の実従(蓮如の末子)や教行時の実誓(蓮如の孫)がこれを助ける。
 天文23年8月23日、石山本願寺が、前宗主本願寺証如の葬儀を行う。
 天文23年(1554)9月、毛利元就が安芸桜尾城の西方折敷畑で陶方の勇将宮川房長を殲滅。
 天文23年、小猿(豊臣秀吉)が、尾張中村に戻る。//母(大政所)が再婚し、その継父と合わずに家出し、各地を転々とした末、今川義元の家臣松下加兵衛に奉公した。しかし、仲間に妬まれ、松下家を出奔。//この後、織田信長に小者として仕えることになる。
 天文23年10月12日、本願寺証如の遺骨が、出生地である山科において葬られる。
 天文23年(1554)11月1日、尼子国久ほか尼子新宮党が、毛利元就の謀略により、尼子晴久によって誅殺される>尼子氏では毎年11月1日に次年のことを評議するため一門衆、家老衆が富田城に集まることになっており、尼子国久も登城したが、その帰途、尼子晴久の命を受けた大西1兵衛、本田豊前守がこれを襲う。ここで嫡男誠久も討ち取られる。⇒その他は新宮谷に帰り、籠城。
 天文23年11月2日、出雲尼子氏内紛で尼子晴久側の富田勢が新宮谷に押し寄せたが、半数以上を討ち取られるが、夜中になって新宮党は全滅。⇒誠久の四or五男孫四郎が乳母の懐に抱かれて新宮谷を落ち、備後の徳分寺を頼り、成人の後出家して上洛し、東福寺の小僧となる。これが尼子勝久と伝えられる。>>尼子新宮党の滅亡の異説として、尼子誠久が普段から武功を誇り、尼子将士の反感を買っていたことや、尼子国久が誠久の弟与四郎を偏愛するあまり誠久の嫡男に伝えた領地を与四郎に与えようとしたため、憤った誠久の嫡男が尼子晴久に国久謀反のことを讒言したとの説もあり。
 天文23年、新宮党尼子国久(経久の次男)とその子誠久、敬久が毛利元就の謀略により、尼子当主晴久により誅される。
 天文23年12月、北条城(柏崎市北条)城主北条高広が、武田氏の誘いに乗って、長尾景虎に謀反する。
 天文23年12月5日、武田氏家臣甘利昌忠と長尾景虎に謀反した北条高広が春日山城攻略の謀議を行う。

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