950(1542)_==天文11年==(最新版)

>_<あくまでも司空が各種資料に基づき独自に調査した結果ですので、誤りがあっても司空は一切の責任はとりません。>_<
>_<ご利用に際しては、解説・注意をご確認の上、各人で十分に史実をご確認ください>_<


 天文11年(1542)1月、大内義隆、出雲国遠征のため、自ら山口を出陣。//養嗣子周防権介晴持、陶中務大輔隆房、杉伯耆守重矩、内藤下野守興盛の三重臣以下、精兵1万5千が従軍。⇒その後安芸国国府で毛利元就ら芸備の兵を合わせて石見路から出雲に向かう。
 天文11年3月17日、河内守護木沢長政が、細川晴元方の三好政長と河内守護代の遊佐長教の挟み撃ちに合い、河内の太平寺(柏原市太平寺)で敗死。//長政は天文10年10月に細川晴元に反旗。
 天文11年(1542)3月初旬、大内勢の出雲遠征の先鋒が石見国邑智郡出羽(イズハ)二ツ山に到着。ここで、益田、福屋、佐波、出羽、小笠原、本城らの石見国人衆が合流。⇒その後、江川の都賀の渡を越えて出雲に入国。
 天文11年(1542)4月5日、越後守護上杉定実は隠居を決意し、誓書を守護代長尾晴景(上杉謙信の実兄)に送る。
 天文11年6月、大内勢が出雲国飯石郡赤穴の瀬戸山城を攻囲。城主は赤穴光清で、富田城から援軍として田中三郎左衛門が入城//瀬戸山城は尼子1旗の4番目に位置する富田城防衛の重要拠点。
 天文11年6月7日、出雲瀬戸山城攻囲中の大内方の先陣熊谷直続が抜け駆けして城に肉薄するも、反撃にあい部下の荒川与三とともに討死。
 天文11年6月29日、出雲遠征中の大内義隆が本営を飯石郡頓原の由木に移し、兵に休息を与える。
 天文11年6月29日、実顕(浄土真宗)が、加賀の超勝寺で逝去。//下間頼秀・頼盛兄弟とともに、蓮悟らの加賀三カ寺を滅ぼした享禄の乱の張本人。//この結果、本山が加賀を直接支配することになる。
 天文11年7月17日、石山本願寺において、阿弥陀堂造営の定礎を実施。//その後、7月21日に立柱、7月26日に上棟。
 天文11年7月26日、武田晴信(後の信玄)が、妹婿の諏訪頼重を、甲斐板垣(甲府市東光寺)で切腹させる。//晴信は頼重を桑原城(諏訪市四賀)に追い詰め、偽って捕らえていた。
 天文11年7月27日未明、出雲瀬戸山城攻囲中の大内勢4万が瀬戸山城の総攻撃を敢行するも、城主赤穴光清以下の頑強な抵抗のため未の刻(午前2時頃)に総退却。しかし、この日の合戦で赤穴光清が流れ矢に当たり討死。享年5〇歳。//大内勢は数百が討死。⇒赤穴光清討死のため、援軍の将田中三郎左衛門は光清の妻子を助けるという条件で開城。⇒その後、田中はじめ城兵達は同月29日に富田城に到着。
 天文11年8月10日、織田信秀が、今川義元の大軍を、小豆坂(岡崎市羽根町)で打ち破る。
 天文11年8月、斎藤道三が、主人土岐頼芸を尾張へ追放し、美濃一国を奪う。//合わせて、頼芸の妾三芳野も奪う。
 天文11年9月25日、武田晴信が、諏訪一族の高遠頼継が反旗を翻したため、すぐさま出陣し、安国寺(茅野市宮川)で圧勝。//頼継は、晴信が諏訪頼重を討つ際に、晴信に加担したが、処遇を不服として反旗を翻した//晴信は戦勝の勢いに乗り、敵を追って伊那へ進攻し、諏訪と伊那郡を手中に収める。
 天文11年10月、池坊専応が、京において華道の奥義を口授する。「専応口伝」という。 天文11年6月29日、出雲遠征中の大内義隆が本営を飯石郡頓原の由木に移し、兵に休息を与える。
 天文11年10月中旬、出雲遠征中の大内義隆が出雲三刀屋ヶ峰に進攻。
 天文11年11月上旬、出雲遠征中の大内義隆が出雲八束郡、大原郡の境界高津馬場に転陣するも、嵐のため馬潟(マカタ)の正久寺に陣を移す。//大内勢はここで冬を越し立春の雪解けを待ち、富田城攻略に着手となる。
 天文11年11月14日、法華宗の21カ寺が、帰京を許される。
 天文11年11月19日、石山本願寺に落成した阿弥陀堂に新しい本尊が安置され、仏事を修する。
 天文11年11or12月、細川氏綱(細川尹賢の実子で、のちに細川高国の養子となる)が、細川晴元に反抗し、挙兵。堺を包囲するも、攻め切れず。
 天文11年12月26日、三河松平広忠に嫡男が誕生。幼名竹千代、のちの徳川家康。母は於大。

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