950(1539)_==天文8年==(最新版)

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 天文8年(1539)、周防大内氏重臣陶興房逝去。
 天文8年(1539)1月12日、子の刻頃、石山本願寺の寺内町北町から出火し、28戸が焼失。
 天文8年1月14日、三好範長(利長から改名、後の長慶)が、阿波衆2500を率いて、入京。//細川晴元の画策。
 天文8年1月14日、本願寺証如が、将軍足利義晴や管領細川晴元以下に年始御礼のための金品を贈る。
 天文8年4月初旬、宮王大夫が、石山本願寺を訪れたため、証如は桟敷9間を作って、4日間の勧進能を催す。
 天文8年4月27日、本願寺証如が、近江北半国領主浅井亮政宛に、江南の六角定頼との争乱が鎮まったことを祝う書状と太刀、緞子を贈る。
 天文8年5月、大内氏が尼子氏から石見大森銀山を奪回。//奪還後、大内義隆は大森銀山に年間5百枚の運上銀(6年前の5倍の運上額)を命じる。
 天文8年、狩野元信が、石山本願寺の障壁画に取り掛かる。//15年間かけて完成する。
 天文8年6月9日、本願寺証如が、朝廷から伏見天皇直筆の和歌一巻と盃1枚を拝領。
 天文8年閏6月、三好範長(後の三好長慶)が、管領細川晴元を討つために決起。//晴元は一旦高雄に退いた後、花園妙心寺(京都市右京区)に進出。範長は山崎から向日(京都府向日市)に陣を張る。
 天文8年7月21日、下間頼盛(浄土真宗)が、石山本願寺が放った刺客により殺される。//翌日、本願寺証如に報告される。//本願寺が室町幕府に反抗した件は、下間頼秀と頼盛兄弟が全ての責任を取り、殺される形で収束した。
 天文8年7月28日、三好範長(後の長慶)と管領細川晴元が、将軍足利義晴の依頼を受けた六角定頼の仲介により和睦。//しかし、範長は、晴元方の木沢長政や三好政長との対立を解かない。
 天文8年8月、畿内で大洪水が発生。//京から公家や職人が、山口の大内氏の元に下る。
 天文8年9月15日、室町幕府より京からの退去を命じられている法華宗徒が、室町幕府に京への帰還を願い出たが、室町幕府はこれを拒否。
 天文8年9月27日、本願寺証如の母慶寿院が、朝廷から「栄華物語」15帖を拝領。 天文8年10月、尼子勢が播磨英賀(アガ)城(姫路市)を落とす。
 天文8年10月、尼子勢が、播磨守護赤松政村の救援のため備中に進出した阿波守護細川持隆の軍勢を撃退。
 天文8年10月7日、本願寺証如が、加賀三カ寺派の洲崎兵庫が越前衆とともに加賀へ乱入するとの噂を受け、加賀四郡や超勝寺、本覚寺に書状を出して用心させる。
 天文8年11月、尼子勢が、反撃を企図して播磨に入国した赤松晴政(旧名村政)を再び追放//赤松晴政は摂津滝山から和泉堺へ逃れる。
 天文8年12月5日、石山本願寺が、四天王寺の太子堂屋根葺き替えのために、千疋を奉加する。
 天文8年12月25日、石山本願寺が、守りを固めるため、法安寺の東堀からその下の岸までを70貫文で買取。

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