>_<あくまでも司空が各種資料に基づき独自に調査した結果ですので、誤りがあっても司空は一切の責任はとりません。>_<
>_<ご利用に際しては、解説・注意をご確認の上、各人で十分に史実をご確認ください>_<
>_<ご利用に際しては、解説・注意をご確認の上、各人で十分に史実をご確認ください>_<
天文18年(1549)1月20日、本願寺証如が、朝廷から「三十六人集」を拝領。//「三十六人集」は最古の三十六歌仙の歌集で平安期の元永年間に書写されたもの。
天文18年1月26日、本願寺証如が、勅許により、権僧正となる。//権僧正は僧官職の極官位。
天文18年2月2日、本願寺実如の25回忌法要。
天文18年2月12日、三好長慶が、摂津越水にあって、細川晴元方の伊丹城主伊丹親興を攻めて、城下を焼く。//敵の三好政長が池田城外に放火したことがきっかけとも。
天文18年2月25日、本願寺証如が、権僧正任官への謝礼として、朝廷に2千疋、青蓮院に1万疋を献上。
天文18年2月26日、三好長慶が、兵を摂津伊丹から尼崎に移す。河内の高屋にいた遊佐長教が、娘婿長慶に呼応して、北進を開始。摂津西成郡守護の細川晴賢は居城堀城(別名中島城、大阪市東淀川区十三本町)を捨て、柴島(東淀川区柴島)の三好政長のもとに逃げ込む。//三好長教が、尼崎から三国川を渡り、空になった堀城に入る。
天文18年3月1日、三好長慶の大軍勢が、細川晴賢や三好政長が籠る柴島城に迫ったため、晴賢や政長は戦意を失って柴島城を退き、淀川を渡って榎並に籠る。
天文18年3月6日、三河の松平広忠、岡崎城内で近臣の岩松八弥に切られて死亡。享年24歳。//嫡男竹千代(のちの徳川家康)は8歳で、尾張の織田信秀の人質となっていた。//今川義元がこの隙に三河を手中に収める。
天文18年3月10日、石山本願寺において、花見が行われ、酒宴が深夜八つ時(午前2時頃)まで続いた。
天文18年(1549)、三好長慶、遊佐長教(長慶の岳父)が、細川高国の養子氏綱を擁立し、細川晴元家臣三好政長(晴元の軍事面を支えていた)を摂津榎並で討ち取る(江口の戦い)。
天文18年6月、三好長慶・細川氏綱が、足利義晴・義藤(のち改名して義輝)父子、細川晴元を京都から再び追う。将軍父子は近江坂本に逃亡し、常在寺に留まる。
天文18年6月11日、三好政長が、細川晴元や六角定頼の来援の遅れに痺れを切らし、榎並から淀川を越えて、江口に布陣。//3月6日参照//三好長慶の弟十河一存が政長勢を襲い、散々に打ち破る。
天文18年6月24日、三好政長が、討死。//6月11日参照。
天文18年6月27日、本願寺証如が、三好長慶兄弟や細川氏綱ら9人の武将に戦勝祝いの荷を届ける。
天文18年6月30日、下間光頼(浄土真宗)が中風のため病死。//本願寺の中立を重んじた穏健派の重鎮。
天文18年7月7日、本願寺証如が、三好長慶に、鮨10桶を贈り、長慶も証如に書状と返礼の品を贈る。
天文18年7月9日、三好長慶が、宿願の京入りを果たす。//細川晴元や将軍足利義藤らは近江坂本に脱出。//晴元の権力は没落し、長慶の時代が到来する。
天文18年7月15日、三好長慶が、摂津に戻り、細川晴元方に味方する伊丹親興の伊丹城攻略を開始。
天文18年7月、織田信長が、近江国友村の鉄砲鍛冶に鉄砲500挺を注文。//これほどの大量受注は国友村も初めて。
天文18年8月15日、フランシスコ・ザビエルが、薩摩の鹿児島に到着。//日本にキリスト教を布教するため、イエズス会から派遣され、マラッカを出て、53日間の航海の末に来日。//薩摩領主島津貴久は、ポルトガル貿易の莫大な利益を知って、キリスト教布教を許可。
天文18年9月2日、狩野元信と弟子達が、石山本願寺を訪れ、再び襖絵の作成を開始。
天文18年(1549)9月4日、毛利勢が尼子方の山名理興の備後本城を落とす。⇒山名理興は出雲に走り、備後の尼子勢力の一大拠点が消滅。
天文18年10月10日、石山本願寺の北殿の庭が完成。
天文18年11月7日、三河三カ寺の一つ本証寺(愛知県安城市野寺町)の六世住職賢世が死に、幼少のあい松が残ったため、寺の主立った門徒が集まり、あい松を盛り立てて行くという連判状に署名//松平家重臣の石川忠成も署名。
天文18年11月9日、今川義元が、三河安城城の織田信広(織田信長の庶兄)を攻めて降伏させ、尾張で人質となっていた松平竹千代(のちの徳川家康)と交換。
天文18年12月15日、本願寺証如が、松永久秀に書状と品物を贈る。//久秀は三好長慶の家宰を勤める。このとき40歳。
天文18年12月25日、狩野元信が、石山本願寺の襖絵を完成。本願寺証如は謝礼として50貫文に加え、唐木綿など莫大な品々を与える。//9月2日参照。
天文18年冬頃、大内氏重臣の陶隆房が謀反の準備を進め、重臣杉重矩、内藤興盛もこれに賛同。武断派の三重臣が謀反に賛同。
コメント
コメントを投稿