950(1547)_==天文16年==(最新版)

>_<あくまでも司空が各種資料に基づき独自に調査した結果ですので、誤りがあっても司空は一切の責任はとりません。>_<
>_<ご利用に際しては、解説・注意をご確認の上、各人で十分に史実をご確認ください>_<


 天文16年(1547)、武田信玄が甲州法度之次第を制定。
 天文16年(1547)、吉川経家が生まれる。
 天文16年(1574)1月4日、本願寺証如が、御堂衆の下間光頼の屋敷に赴き、茶を喫し、万里江山の軸を見る。
 天文16年2月20日、比叡山延暦寺西塔院が、昨年と同様、本願寺に対して茶々(のちの本願寺顕如、当時5歳)を新礼拝講の執事役にと要請。//2月25日、本願寺証如は昨年同様要請を断る。
 天文16年2月25日、阿波にいる足利義維(ヨシツナ、前将軍足利義晴の弟)が、本願寺証如に上洛の援助を依頼。//この頃、足利義晴・義藤父子と細川晴元の仲が怪しくなり始める。
 天文16年3月、細川晴元方の三好範長が、細川氏綱方の三宅国村の居城三宅城(茨木市丑寅)を落とす。//三宅国村は門徒。
 天文16年3月、足利義晴(前将軍)・義藤(現将軍)が、細川晴元を裏切って、細川氏綱に通じ、細川晴元を攻めるため、北白川に入る。
 天文16年3月15日、本願寺証如が花見を催す。
 天文16年5月8日、公周尼(浄土真宗実悟の妻)が逝去。享年29歳。//実悟はこの時56歳。蓮如の子供でありながら、証如に追放されている。
 天文16年5月12日、御影堂に落書きして5月11日に捕らえられた門徒海老名孫次郎が、本願寺証如の命で死罪となる。
 天文16年6月、法華宗の寺々が、六角定頼の口利きで京に帰ることを許される。//11年間もの間京から追放。
 天文16年6月、甲斐の武田晴信が、甲州法度之次第を制定。//いわゆる信玄家法。法華宗と浄土との宗論を禁じる。
 天文16年7月12日、細川晴元が、相国寺に布陣し、北白川の足利義晴(前将軍)・義藤(現将軍)父子を攻める。細川晴元に南近江の六角定頼が味方し、義晴らは近江坂本に逃れる。
 天文16年7月12日、細川晴元方の三好範長と細川氏綱方の遊佐長教が、摂津の舎利寺(大阪市生野区舎利寺)で激突。
 天文16年7月29日、細川晴元と、足利義晴(前将軍)・義藤(現将軍)父子が和睦。
 天文16年、尾張の織田信長(14歳)が、三河吉良(愛知県幡豆郡吉良町)において初陣し、在所在所を1軒残らず焼き払う。
 天文16年8月20日、本願寺証如が、昨年の騒乱に対して罰した加賀江沼郡の全門徒を赦免。ただし、動橋(イブリバシ)九郎左衛門ら四人は許さず。
 天文16年9月3日、本願寺証如が、渡唐船(遣明船)の見物のため、堺に出かける。
 天文16年9月4日、細川晴元が、本願寺証如に対して、細川氏綱が雑賀衆に働きかけていることに対して、雑賀衆を制止して欲しい旨の書状を届ける。//9月5日、証如は、雑賀衆が門徒ばかりではないため介入できない旨の返書を送る。
 天文16年10月1日、石山本願寺の崖下に築いた船着場(大阪市中央区京橋付近)に遣明船が乗り入れる。//明の商人から本願寺証如に対して献上品があり、寺からは米や薪、銭1500疋を返礼する。
 天文16年、細川氏綱が、京に迫る。//主将の細川国慶が急死したため、退却。
 天文16年、織田信秀に攻められた三河岡崎の松平広忠が、今川義元に助けを求めた所、嫡子竹千代(のちの徳川家康、6歳)を人質に差し出すよう迫る。広忠は竹千代を差し出すが、途中の田原で戸田康光にさらわれる。康光は、竹千代を織田信秀の元に送り、銭500貫文と交換。//織田信秀は、竹千代を那古野万松寺に客人として置き、広忠に味方するよう強迫したが、広忠はこれを拒否。
 天文16年11月3日、本願寺証如が、足利義維が阿波から堺に密かに上陸し助力を請うている旨の九条稙通からの書状を受領。//翌日、稙通に1000疋を同封した書状を返す。
天文16年11月29日、石山本願寺が、京太秦の広隆寺から230貫文で購入した鐘を御堂の庭に引き出して初めて鳴らす。

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