950(1563)_==永禄6年==(最新版)

>_<あくまでも司空流の年表ですので、誤っている可能性があります。>_<
>_<ご利用に際しては、解説・注意をご確認の上、各人で十分に史実をご確認ください>_<

2018.4.1更新

 永禄6(1563)1月、尼子方の宇山、牛尾、立原らが富田城を出撃し、出雲三刀屋の南地王峠で三刀屋川を隔てて毛利勢と激戦を展開。>出雲白鹿城救援と一致?>当日戦況が有利に進み、次の日を期していたが、毛利勢の援軍が洗合から出陣したとの虚報を信じ、富田城に帰還。>尼子方にとって、これが毛利方の補給線を断つ好機であった。

 永禄6(1563)1月、尼子勢が毛利軍に包囲された出雲白鹿城を救援するために援軍を派遣。この時山中鹿之助19歳、援軍の先鋒を願い出るも、大身の反対で叶わず。秋上庵介が従軍。退却時の殿軍で功があったと言われる。立原久綱は、尼子勢の三刀屋城攻撃において尼子義久の近習頭として先発隊を率いたのが史書に現れる最初。

 永禄61(1563)、上杉輝虎が厩橋城(群馬県)で関東諸将に号令をかけ、武蔵国松山城へ向かう。

 永禄6(1563)2月、本願寺顕如が、紀伊に出張り、弥勒寺山にあった坊舎を鷺森(和歌山市鷺ノ森)に移す。

 永禄6年、上杉輝虎が、私市(サキイチ)(埼玉県北埼玉郡騎西町:城主小田家時)及び忍城(城主:成田長泰)を攻略し、降伏させる。//成田長泰は、鶴岡八幡宮における上杉景虎の関東管領職就任の儀式の際に、頭が高かったという理由で輝虎から扇子で顔を二度叩かれ、それを契機に北条氏康に味方していた。

 永禄6年、大友宗麟が毛利方の豊前苅田松山城を攻撃毛利元就は掛合に在陣中の嫡男毛利隆元に北九州出陣を命じる。

 永禄631日、細川晴元が、摂津富田の普門寺で、死去。享年50歳。

 永禄63月上旬、毛利氏と大友氏の和議が成立。毛利隆元は北九州の陣から出雲へ。

 永禄64月、尼子勢が出雲松江の津田表を夜襲。

 永禄6415日、上杉輝虎が、小山城(栃木県小山氏)の小山秀綱を攻略する。//小山城攻撃には常陸の太田城主佐竹義昭や下野の宇都宮城城主宇都宮広綱も輝虎のもとに参陣。

 永禄65月頃、浦上政宗と浦上宗景の兄弟が、10年以上に渡る対立を経て、和睦。-同時期に、播磨の黒田職隆と縁組して再起を図ろうとする。(Wiki

 永禄6512月、浦上宗景(備前)と三村家親(備中)が戦闘状態になる。-両者は以前から美作の支配などを巡って不仲となっていた。

 永禄6512月、浦上宗景が、毛利氏と断交。

 永禄6年、上杉輝虎が、唐沢山城の佐野昌綱を攻略する。

 永禄66月、上杉景虎が、武蔵国攻略を終え、越後国に帰国。

 永禄6616日、ポルトガル人宣教師ルイス・フロイスが日向横瀬浦(長崎県西彼杵郡西海町横瀬郷)に上陸。

 永禄6623日、上杉景虎の禅師林泉寺六世住持天室光育禅師が逝去。

 永禄67月、三河の松平元康が、今川氏真と明確に縁を切り、名を家康と改名。

 永禄68月、三好長慶の嫡男義興が、河内飯盛山城で逝去。//松永久秀による毒殺が囁かれる。

 永禄6年、越前に逃亡していた超勝寺の教芳が、捕らえられ、石山本願寺が生害に処す。

 永禄684日、毛利隆元、安芸高田郡佐々部(広島県高宮町)で急死。享年41歳。>時に毛利元就は67歳。

 永禄686日、尼子方、富田城を出て松江の馬潟原で毛利勢と合戦。

 永禄6(1563)813日、毛利元就、15千余を率いて白鹿城(城将松田誠保、城兵2千)総攻撃を開始。

 永禄6813日、毛利元就、出雲白鹿城の総攻撃を命じる。毛利勢15千、城方は城将松田兵部丞誠保の手兵1千と牛尾太郎左衛門尉久清率いる富田の援兵8百余。

 永禄6819日、尼子方、富田城を出て白鹿城の麓の船本で毛利勢と合戦。

 永禄6828日、毛利軍と尼子軍、出雲国宍道で衝突。

 永禄69月、三河の徳川家康が、織田との連携に反対する酒井忠尚に備えるため、菅沼定顕に命じて、佐々木に砦を構築。

 永禄691日、尼子方の熊野兵庫介が熊野城で毛利勢と合戦。

 永禄6911日、毛利元就、大森銀山の鉱夫数百名を出雲に呼び寄せ、白鹿城の水の手を断つために穴を掘ることを命じる白鹿城内でこれを察知し、地下道を作って毛利勢を迎え撃つ。

 永禄6923日、尼子方、白鹿城救援のため、尼子倫久(義久の弟)を総大将に亀井秀綱/佐世清宗/牛尾幸清/宇山久兼/川本隆任ら尼子重臣の率いる7千余の第1陣、山中鹿之助/立原源太兵衛/大西1兵衛らの近習馬廻週率いる3千余の第二陣の総勢1万余の救援軍が出陣。和久羅から馬潟原に至る地点まで進出。毛利勢は最初尼子勢を相手にせず、十分引き付けてから反撃に転じ、毛利氏の両川吉川元春と小早川隆景が尼子勢を挟撃したことで、尼子勢第1陣が崩れ、山中鹿之助ら第二陣が殿軍となり奮戦。

 永禄610月、徳川家康の家臣菅沼定顕が、上宮寺に入り、米を強制的に徴発し、上宮寺が守護不入に違背していると憤慨し、門徒衆を糾合して砦を襲い、米を奪還する。//定顕は組頭の酒井正親に訴え、正親は上宮寺に詰問状を出すが、上宮寺は相手にせず。

 永禄61013日、出雲白鹿城(尼子方)の小高丸が落ちる。

 永禄6(1563)10月、山中鹿之助、立原久綱ら、毛利氏包囲下にあった白鹿城の救援作戦で敗北の尼子勢の殿軍を勤める。>9月の間違いか?

 永禄6(1563)1029日、白鹿城落城。城将松田誠保は隠岐へ去り、援軍の牛尾久清は富田城に送還される。一説では松田誠保ら城将が毛利方に投降したとも。>白鹿城落城の寸前、松田兄弟が毛利方に降参しようとした際、松田誠保の妻(尼子晴久の妹?)が「各はともかくもしたまへ、自らは自害せん」と叫んだと言われる。

 永禄610月下旬、三河の門徒が、徳川家康に対して、決起。//三河一向一揆には、元三河守護の流れの吉良義昭、その弟で家康の妹婿の荒川義等、松平昌久、松平家次、酒井忠尚達が加わる。さらに、本多正信や鳥居忠広、蜂屋半之丞、渡辺半蔵らまでも一揆方に加担。//家康、22歳。血気盛んに一揆討滅を目指す。//三河の高田専修寺派は家康に味方。

 永禄611月、尼子方の兵糧船が因幡・但馬方面から回漕され、伯耆の弓ヶ浜海岸沖合に出現。中海の制海権は既に毛利水軍が掌握。

 永禄6(1563)1115日、尼子方が因幡・但馬方面から伯耆弓ヶ浜に回漕された兵糧を富田城に運ぶため、弓ケ浜に出陣するも毛利軍に破られる(弓ヶ浜合戦)。>山中鹿之助も参加していたと思われる。

 永禄61125日、三河の徳川家康勢と一向一揆勢が、小豆坂で合戦。この時、槍の名手で一揆勢の蜂屋半之丞が、家康方の水野藤十郎と渡り合うが、家康の姿を見て、蜂屋半之丞は逃げ出す。

 永禄611月、近江で徳政一揆が発生。

 永禄6年、北条氏康が、武蔵に出陣。呼応して、武田信玄が倉賀野城を攻める。

 永禄612月、細川氏綱が、淀城(京都市伏見区納所)で逝去。

 永禄62月、北条軍が武蔵国松山城を落とす。//上杉景虎の救援は間に合わず。

 永禄612月、上杉輝虎が、関東諸将を救援するため、積雪の中、関東に出陣。

 永禄6年閏125日、上杉輝虎が、北条氏康と武田信玄が上野国金山城(群馬県太田市)に向かうと聞き、小泉城(群馬県邑楽郡大泉長)城主富岡重朝と岩槻城(埼玉県岩槻市)城主太田資正らを桐生(群馬県桐生市)に出陣させる。

 永禄6年閏1219日、上杉輝虎が和田城(群馬県高崎市)を攻めようとしたところ、常陸国小田城(茨城県筑波郡筑波町)城主小田氏治が北条氏康に応じて輝虎に背く。

 永禄612月、上杉輝虎は、厩橋城で越年。

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