第十七章 信貴山(3)

 陽が大きく傾き、周囲の色彩が明度を失っていく。
 天守が地面に落とす暗影が秋の夕陽を受けて東の方角へと伸長しながら、次第に地面の色に同化していく。
―陽が沈めば、動きます。
 先頭にいる亥介が地面に伏臥したまま背後にいる四人を振り返り、自分の意思を伝達する。
 清太は残照に包まれる灌木群の中で息を潜め、前方の天守を見つめる。城兵達が放つ緊張と殺気が地面に伏せる清太の全身に容赦なく降り注ぐ。清太は夕闇の訪れを待つ焦燥との相乗で、ともすれば気息が乱れそうになるのを精神力で押さえ込む。
 心身の忍耐は実際以上に時間の経過を長く感じさせる。
 遠方で新たに喊声が上がり、城郭全体が震動する。
―また、どこかが破れた。
 山頂へと殺到する織田兵の地響きが、冷たい地面を通して清太の身体に微かに伝わる。
 内曲輪のすぐ外側まで喊声、矢唸り、硝煙の炸裂、そして、干戈の響きが迫る中、亥介が暮色の深まる灌木群の先端まで静かに移動し、天守に近付く。
 亥介が漸進を止め、再び背後を振り返り、
―今はここが限界。
と、口許の微妙な動きで後続の四人に知らせる。亥介の眼前には数本の灌木が残っているだけで、天守の土台がすぐ向こう側に見えている。
 最後尾の平次郎が背負っている太刀を静かに握る。清太も背中にある杖に手を伸ばす。
―敵は死兵、力で制するのは愚策です。
 焦燥で冷静な判断を失いがちな平次郎と、それに釣られる清太を、弥蔵が掌で押さえる。
―内曲輪の城門が破れた瞬間、混乱を衝いて天守に侵入する。
 清太は沈着を取り戻して、亥介と弥蔵の企図を読み、色彩を失いつつある秋空に、闇の到来を祈念する。
 その時、一際巨大な鯨波が内曲輪の空気を激しく震わせる。
―城門が落ちた。
 瞬間、天守を固める城兵達が心身の内部に蓄積していた緊張を一気に爆発させ、人間の声とは思えぬ雄叫びを発する。
 天守の裏手を守っていた城兵が城門から殺到してくる織田兵を迎え撃つため、正面側へと移動する。
 亥介が無言のまま小さく右手を動かして弥蔵と総馬を誘う。三人は素早い動作で灌木の陰から這い出て、天守へと駆け寄り、先頭の亥介が天守の足下で振り返ったあと、両手を組んで踏み台を作ると、背後に続く弥蔵と総馬が亥介の両手に脚を掛けて天守二階へと跳ね上がり、欄干を跳び越える。亥介が、弥蔵の垂らした縄を掴み、素早く攀じ登る。三人が天守内部に消える。清太と平次郎はそのまま待機して、弥蔵達三人を援護する体勢を取る。
 直後、三人の影が天守から拒絶されたように吐き出され、次々と地上に転がり落ちる。
 続いて、亥介達とは異なる三つの黒影が夜空を横切り、静かに地上に舞い下りる。三つの黒影は地面に転がった弥蔵達三人を放置したまま、天守を背にして駆け出す。そこに灌木の陰から忽然と現れた清太と平次郎が立ち塞がる。
「霜台の陣屋を探っておった若造、それに四天王寺にいた盗人どもか。お主達とはよほど縁が深いようじゃな。」
 黒影の一つが低声で清太達を正確に識別する。その言葉が清太達に三つの黒影の正体を認識させる。
「貴僧との闘争はわたし達の望むところではない。我ら一族の御劔と背後に控える従者の百足、そして、藤佐なる悪党を渡していただければ、手を引くが如何かな、乙護法殿。」
 清太が咄嗟に黒影に提案する。その言葉には相手の正体を確認するための仕込みが織り込まれている。
「ほう…。」
 黒影の一つが是非どちらとも付かない嘆息だけを発し、回答を曖昧にして、清太の問いを黙殺する。二人の小さな遣り取りを横目に見ながら、ひっそりとこの場所から退去しようとする一つの黒影を、平次郎が抜き身で遮る。
「藤佐、逃がさぬ。」
 平次郎の怨讐の籠った重い声が暗闇に響く。
「女なら嬉しい所だが、男に執拗に追われるというのは、わしの趣味には合わぬ。」
 藤佐が皮肉気な微笑を浮かべ、太刀に右手を掛ける。刹那、平次郎は憤怒に任せて一気に距離を縮め、藤佐に襲い掛かる。平次郎が繰り出す怨念の太刀が藤佐を圧す。しかし、藤佐も戦国乱世の裏世間を強かに生き抜いてきただけに、平次郎の鋭鋒を器用に受け流して、極め手を与えない。
 清太は、平次郎から少し離れて、剣と杖を握った両拳を、翼を広げるように斜め上方に突き上げる鶴翼の構えで乙護法の前方に立ち塞がる。体勢を立て直した弥蔵、亥介、総馬も小太刀を構え、二つの影の退路を塞ぐ。
 天守正面側では加速度的に干戈の響きが増大し、混乱が拡大する。
 乙護法が低く命じる。
「長居は無用。百足、仕掛けよ。」
 乙護法の指図を受けて、百足と呼ばれた従者が、
「総馬、出番じゃ。」
と命じる。
 清太が聞き覚えのある声に、
「兎吉。」
と、小さく叫ぶ。同時に、清太は首筋に冷たく無機質な邪気を感じ、反射的に足を踏み出しながら上半身を捻って逃れ、さらに淀みのない動作で反転しながら、身体の捻りを加速させて剣を右斜め上方から袈裟斬りで一閃させる。剣が清太の背後を迫った邪気を浅く切り裂く。邪気は大きく後方に跳躍し、清太の間合いから離れている。
「総馬、血迷うたか。」
 亥介が怒声を発しながら、清太の背後から切りつけようとした総馬に向けてありったけの得物を投擲する。総馬はその幾つかを小太刀で払い落としたが、遂に躱し損ねて体躯の均衡を失う。亥介がその崩れに付け入り、遮二無二に小太刀を繰り出す。
 丙部から兎吉に続いて二人目の裏切り者を出したことに重い責任を感じた亥介は、
―断固として誅罰する。
という覚悟の乗り移った小太刀を狂ったように振る。
 総馬の体勢が大きく崩れた瞬間、亥介が総馬の脳天を目掛けて小太刀を拝み打つ。渾身の斬撃が総馬の脳天に達した瞬間、総馬が苦し紛れに片手で突き出した小太刀が亥介の無防備な脾腹を深々と貫く。
 亥助と総馬は折り重なるように地面に倒れる。
 兎吉の嘲笑が低く響く。
「兎吉、お前の穢れた欲望で峡衆の尊い命が二つも失われた。さらにその死を笑うとは、…。」
 清太の声が怒気で震える。
 兎吉が笑いを収める。
「誤解を召さるな。峡を捨てる道を選んだのは総馬自身じゃ。」
「戯れ言を…。お前が総馬を誑かしたのだろう。」
 清太が兎吉を兒視する。清太と弥蔵、そして、乙護法と兎吉、双方が隙を窺う。
 濃厚な硝煙の香りが鼻腔を突く。
 その瞬間、信貴山城の天守最上層が轟音とともに火を噴き、砕け散る。激しい衝撃と大小の瓦礫を含んだ爆風が天守周辺を襲う。清太は、雪崩から身を守る体術を咄嗟に応用し、爆風に抗わず、逆にそれを追風にして全身で受け止め、空中で体勢を制御しながら、柔らかく後方に飛ぶ。これは峡伝承の技であり、弥蔵と兎吉も反射的に清太と同じ姿勢を取る。
 乙護法は爆風に逆らわず、何度も宙返りしながら、風下に向けて転がっていく。
 藤佐は背後からまともに爆風を受けて制御を失い、吹き飛ばされる。
 平次郎は爆風を真正面から受けて一度体勢を崩したものの、後方に大きく地面を蹴り、身体に作用する風圧を相対的に減らして、体勢を立て直し、爆風と瓦礫に翻弄される藤佐を見つめる。
 爆風の衝撃が周囲に拡散するにつれて、身体が感じる風圧が和らぐ。
 平次郎は両膝を曲げて前方への跳躍に備えつつ、制御を失ったまま近付く藤佐に対して太刀を中段に構える。藤佐が体勢を立て直すために受け身を取ろうとした瞬間、平次郎は両膝に蓄えた力を瞬発的に解放して跳躍し、太刀を上段に構え直しながら、藤佐の間合いに踏み込んで、渾身の力で太刀を振り下ろす。藤佐は大きく仰け反って、平次郎の太刀をぎりぎりのところで躱したが、姿勢を崩した藤佐の喉笛に平次郎が必殺の刺突を繰り出す。
 清太と乙護法、そして、弥蔵と兎吉は、それぞれが爆風と瓦礫で浅傷を負いつつ、天守から十間ほど離れた場所に二つに分かれて着地する。
「霜台め、やっと砕けおったわ。」
 乙護法が無感情に呟く。
 天守の周囲に入り乱れる多くの将兵が爆風に飲み込まれて深浅の手傷を負う。天守の爆発で錯乱した一部の将兵が敵味方の区別なく斬り付け、内曲輪の混乱が増幅していく。
 極度に混乱した戦場では意図を持たない矢玉や刃が飛び交い、敵味方の区別なく触れるものを傷つける。これらの得物がふとした拍子に歴戦の名将や兵法の名人の命を奪うこともある。
「乙護法殿、もう一度だけ尋ねる。兎吉と剣を渡して貰えれば、それ以上は求めぬが、如何か。」
「若造、それはお前達の勝手な言い分よ。欲しいと言われて差し出すほど、わしはお人好しではない。」
「ここで対峙を続ければ、この城とともに滅びるぞ。」
「心配無用じゃ。わしは織田、松永の雑兵などにやられはせぬ。」
 乙護法が対決の意思を示すように、黒衣を大きく翻す。
「では、ここで決着をつけるしかない。」
 清太が覚悟を決め、剣と杖を握る両手に力を込める。
「若造、後悔するぞ。」
 乙護法が言葉を切った刹那、清太の鼻腔に微かな刺激が走る。
―来る。
 乙護法が放った強力な妖薬と明瞭な殺気に清太の鋭敏な感覚が反応する。
 清太は剣と杖を、弥蔵は小太刀を構えて、それぞれ乙護法、兎吉を邀撃する体勢を取る。
 乙護法が一直線に疾駆し、清太に衝突する直前で全身を包む黒衣の内部から瞬時に数本の小柄を投じる。清太は乙護法の突進を真正面で受け止めながら、左手の杖で小柄を払い落とし、さらに、右足を大きく踏み込んで乙護法の間合いに大胆に侵入し、右手の剣を水平に一閃させる。
 乙護法は大きく退いて、清太と距離を取る。清太はそれを追い、左手の杖で乙護法の腰に打撃を放つ。乙護法は黒衣を翻してそれを払う。空中に大きく広がった黒衣に清太が蹴りを入れるが、乙護法の肉体には届かない。
 ここまで無呼吸の清太は、蹴り出した脚が接地した反動を利用して大きく後方に跳躍し、さらに二度跳び下がって、妖薬に汚染されているはずの空間を離脱する。
 清太は新鮮な空気を吸い込んだあと、再び乙護法に挑み、両手の剣と杖を駆使して、華麗に舞い、時に跳ね、時に薙ぎ、時に突く。清太の切っ先が幾度も乙護法の黒衣だけを浅く切り裂く。
 清太は再び新鮮な空気を求めて妖薬の結界の外側に逃れる。
 清太の視界の隅で弥蔵と兎吉が鎬を削る。若さに勝る兎吉が膂力に任せて次々と手数を繰り出すが、老練の弥蔵はこれを巧妙に受け流し、隙を見て兎吉に付け入って、互角に戦う。
 無論、清太に弥蔵を助力する余裕はない。
 呼吸を継いだ清太は乙護法に三度目の仕掛けを挑む。清太は呼吸を止めたまま攻め続ける。乙護法との間合いを掴みつつある清太の剣が徐々に乙護法の皮膚を捉える。乙護法の全身を覆う黒衣が至るところで裂け、血が薄く滲む。
―もう少し…。
 清太の剣が乙護法の肉体に迫るが、激しい剣舞は清太の胸中にある空気を確実に奪っていく。
 清太は、再度、妖薬の結界を離脱せざるを得ない。
 清太は、空気を吸い込んだ瞬間、鼻腔に不快な幻惑を感じる。
 乙護法が散布した妖薬は清太の想像を超えて拡散していた。
―ここまで広がるとは…。
 清太が胸中で臍を噛んだ時には、既に鼻腔を通じて妖薬が体内に浸潤していた。
 清太の剣勢が鈍っていく。
 乙護法は、妖薬が清太を捕捉したことを、認知する。
「若造、剣の腕前だけで言えば、裏世間でも並ぶ者はそうはおらぬだろう。しかし、それだけではこの世界は生き抜けぬ。ここからはわしの舞台じゃ。」
 清太の視野の中で乙護法の姿が急速に膨張する。清太は既に自分の意思で視線を逸らすことはおろか、瞼を閉じることさえもできず、ただ、目の前で肥大化する乙護法を見つめる。
 清太の視界全体を乙護法の黒衣が占有し、さらに、瞳だけが巨大化していく。清太は底知れぬ漆黒の瞳から逃れようと必死に抗うが、脳幹を冒し始めた妖術は、藻掻けば藻掻くほど強い粘着力を発しながら蜘蛛の糸のように清太の神経に複雑に絡まり、心身を呪縛していく。
「素直に退いておれば、命を粗末にせずに済んだものを…。」
 乙護法が清太を小さく嘲る。その声に抵抗するように剣を振るおうとする清太を、乙護法が嗜める。
「若造、まだ分かっておらぬようだな。」
 単純な言葉にも、清太をさらに妖(あやかし)の世界へと誘い込む韻律が含まれている。
「存分に術を馳走して進ぜよう。右の袖に火が点くぞ。」
 乙護法の言葉と同時に、清太の右袖に紫色の小さな妖炎が上がり、時を置かず全身を包む業火へと成長する。灼熱の火炎と熱傷による激痛が清太の全身を襲う。しかし、清太は金縛りにあったまま、業火から逃れることはおろか、身悶えることさえもできない。足下の地面には焼け焦げた脂が滴り、爛れた皮脂の一部から白骨が露出する。
 清太は精神が錯乱するほどの激痛に苛まれる中で、自分自身の肉体から発する煤煙と臭気を明確に感知し、現実と妖異の境界をさまよう。
「ちと熱いだろう。冷やして進ぜよう。」
 弄ぶような乙護法の声が清太の脳幹を激しく揺さぶる。直後、頭上に濛々と巻き上がる黒煙から、一つ、二つと小さな雨滴が落ちる。それは甚雨へと変化し、清太の全身を焦がす業火を消し去り、爛れた肉と血を洗い流す。
 清太は重度に熱傷した全身を癒すように降り注ぐ冷たい雨に、当初心地よい感覚を覚える。しかし、雨滴は時間の経過とともに、清太の全身から体温と血液を奪い去る。
 雨は次第に雪へと変化し、清太の周囲に薄く降り積もり、清太の体内から流出する血液と混じり合って薄紅色に染まる。体内に残る僅かな体温さえも雪に奪われ、清太の末梢神経が麻痺し、意識が遠退いていく。
「地獄への扉を開こう。」
 乙護法の言葉と同時に、清太の真下にある地面に亀裂が入り、次の瞬間、血に染まった薄紅色の雪塊が音もなく暗い地割れの深部へと吸い込まれていく。
 割裂が徐々に広がる。
 地面に固着したように動かない清太の両足が、地溝の拡大とともに左右に離れていく。
「お主が手にしている剣も逸物と見えるゆえ、わしが貰い受けよう。その礼とは言わぬが、冥土の土産に教えてやる。百足がわしへの手土産として携えてきたお主の故郷に伝わる宝剣は、正真正銘、太古よりこの国に伝わる宝剣七星剣の中の一振りじゃ。」
 清太は朦朧とする意識の中で乙護法の声を聞く。
「わしはな、霜台に、「七星剣は毘沙門天の功力を宿す覇者の剣。」と、教えてやった。毘沙門天好きの霜台は七星剣の力に頼って往時の権勢を取り戻そうと、様々な手蔓を使って各所の霊剣・宝剣を集め、その中から七星剣と思われるものを手元に留めておった。しかし、この城も落城間近ゆえ、先刻、久秀に預けていた七星剣を頂戴に天守最上層に参上してきた次第じゃ。」
 乙護法が僅かな間を置く。
「今、それだけかと、思うたであろう。」
 乙護法は妖術の糸を通じて清太の心を読み、その浅慮を皮肉る。
「朝護孫子寺には門外不出の秘術がある。信貴山を中興した命蓮上人はこの秘術を極め、数々の奇蹟を行った。」
 乙護法はその奇蹟を探求し続け、遂に「剣護法(つるぎのごほう)」と呼ばれる秘術に辿り着いた。「剣護法」は、無数の霊剣を鎖で編んで毘沙門天を鎧装(がいそう)し、護摩壇を築いて不眠不休で加持祈祷を修し、毘沙門天の感応を得て、飛翔、読心、催眠はおろか、人の寿命、天変地異さえも操るという。
「霜台はわしに誑かされて、手当たり次第に宝剣を集めておった。しかし、霜台は七星剣以外には興味を持たぬゆえ、残りの刀剣は全てわしが譲り受け、毘沙門天の装飾に用いた。筒井順慶との争いに敗れた折、霜台の利用価値は大いに減じたが、何かの役に立つこともあろうかと思い、信貴山に呼び寄せたことが幸いしたわ。」
 乙護法が不気味に笑う。
「毘沙門天を鎧装する霊剣が概ね揃った頃合いに、お前達が天王寺砦の松永陣屋に忍び込んできた。わしも、霜台が重荷になり始めたゆえ、奴を追い詰めるため、お前達をあの場から取り逃がしたことにした。折角逃がしてやったというのに、恩知らずな若造じゃ。」
 乙護法が高らかと笑ったと思うと、一転、重い声音で続ける。
「戯れ言は仕舞いじゃ。七星剣の霊力は他の剣とは比べ物にならぬ。お前の剣ともども、早速、持ち帰り、剣護法を仕上げる。」
 直後、地面の亀裂から溶岩のように粘りつく紅蓮の火焔が噴出し、清太の全身を包む。怪鳥の口のように紅く広がる地溝がその幅を急速に拡大し、清太の脚が自分の意思とは無関係に大きく開いていく。再び焼け爛れる全身と、引き裂かれていく両脚が悲鳴を上げ、清太の精神が狂乱していく。
―墜ちる。
 清太の左足が断崖の先端から滑り墜ちる。清太は身体の均衡を喪失し、火焔を噴き上げる地の底へと堕ちていく。
 生存を諦念した清太の脳裡に一つの映像が過る。
―よしの。
 その刹那、清太は、最後の力を振り絞って、自分を地底へ引き摺り込もうとする強い力に抗い、地溝を形成する断崖の一方を両脚で強く蹴る。その瞬間、空中を浮游するような感覚が清太の全身を包む。
 清太の周囲を一陣の烈風が吹き抜け、全身を包む業火が消滅する。

「間に合った。」
 清太は微かな意識の中で平次郎の声を聞く。
 炎も、雨も、雪も、そして、足下の地溝も全て消滅していた。
 清太は全身の麻痺を残したまま、火焔の残像が残る網膜を通してゆっくりと周囲を見回す。回復途上の不明瞭な視野の中心に自分を覗き込む平次郎の顔がぼんやりと浮かぶ。平次郎が清太の背中に左手を回して上半身を抱き起こす。清太は、麻痺が残る舌を使って辿々しい口調で呟く。
「わたしは地溝に墜ちたはず…。」
 乙護法は、清太を完全に妖術の陥穽に堕としたあと、この場を退散しようと駆け出した。そこに藤佐を討ち果たした平次郎が敢然と立ち塞がった。乙護法は、当然、平次郎にも妖術を仕掛けたが、乙護法の妖術は平次郎には全く通じず、逆に乙護法は平次郎の使う自在の太刀に追い込まれ、自分の黒衣と左腕という大きな犠牲を払って、漸く平次郎の追及から遁走した。
―平次郎殿がいなければ、あのまま妖術に蝕まれ、頓死していた。
 平次郎は清太の背中を支えたまま、背後を振り返る。清太が視線を追った先に鎖籠手ごと切断された乙護法の手首が転がり、その向こうには妖獣の脱け殻のように小さな膨らみを保つ黒衣が十日月の地面に無造作に置き捨てられている。
―弥蔵と兎吉は…。
 清太はぎこちない動きで周囲を見回し、二人の姿を探す。
 天守周辺の混乱はさらに膨張し、清太と平次郎を飲み込もうとしている。織田兵の放った火が既に外曲輪に燃え広がり、内曲輪に迫る。
「疾く去らねば、巻き込まれる。」
 平次郎は言いながら、右掌で清太の背中に活を入れる。清太は二、三度咳き込み、五感と身体の自由を取り戻す。
「平次郎殿、忝ない。もう少しで業火に焼かれ、暗い地の底に墜ちるところでした。」
 清太は立ち上がり、妖術で凝り固まった筋肉をほぐしながら、再び弥蔵の姿を求める。その様子を見た平次郎が、
「弥蔵殿は百足に討たれた。」
と、清太に告げる。
 清太は、平次郎の視線の先に横たわる弥蔵の亡骸に駆け寄る。
 弥蔵は頸部から大量の血を吹き出して絶命していた。
 清太は幼少から慣れ親しんできた弥蔵の死を前にして、動揺を心の奥底に押さえ込む。
―人の死に心を動かしてはならぬ。
 物心をついた時から父と祖父、そして、目の前で亡骸になっている弥蔵から教え続けられてきたことを、弥蔵自身の死に直面し、実践できる自分を客観的に観察しながら、
―これで弥蔵も成仏できるだろう。
と祈り、そして、信じた。
 今になって思えば、老齢の弥蔵は、幼少から仕えてきた清太とともに挑んだ今回の難事を、峡に対する最後の奉公と考え、さらに思いを巡らせれば、峡の守護である御劔の消滅という凶事にあたる清太が命の危機に瀕することも想定した上で、
―不測のことが起これば、若様の身代わりとなり、御劔が施す全ての不幸を甘受する。
という覚悟を持っていたのかもしれない。
 清太は弥蔵の亡骸の傍らに片膝を付き、片手で拝したあと、右手に握りしめられたままの小太刀を鞘に収めて、自分の腰に帯びる。
 清太は弥蔵の向こうに転がるもう一つの影に視線を移す。
「兎吉か…。」
 微かな呼吸が存在している。弥蔵との闘いで瀕死の兎吉は、血走った眼だけを忙しく動かし、清太の表情とその右手にある剣を必死に睨む。
 清太は兎吉を見下ろす位置で立ち止まり、視線を落として、剣の先端を兎吉の頸部に当て、躊躇なく突き下ろす。
 兎吉が観念して、瞼を閉じる。
 清太の突き下ろした剣が地面を穿つ鈍い音が響く。
 清太は兎吉の横に転がっている細長い布袋を解いて、嚢中に収められていた四振りの剣を次々と取り出し、素早く鞘を払って刀身を確認する。
 いずれも七星剣らしき象眼が施されているが、峡の御劔ではない。
「平次郎殿、もうここに用はない。早々に立ち去りましょう。」
 清太が布袋を背負いながら立ち上がる。
「殺さぬのか。」
 兎吉が力のない掠れた声で清太に迫る。
「これ以上、御劔を血で穢すことはせぬ。ここにいる峡衆はわたしとお前のみ。わたしが峡に戻り、お前を信貴山城で始末したと報告すれば、兎吉という裏切り者の存在は峡から消滅する。」
 清太が一つ呼吸を入れる。
「だが、お前が生きていることを峡が知れば、峡衆は必ずやお前を殺しにくる。ゆえに、兎吉、裏世間からは足を洗え。」
 清太は峻厳な語調の中に、どこか悲哀を漂よわせながら、兎吉に命じる。
「七星剣は覇者の凶剣、人の生き血を啜る。それが御劔の本性じゃ。」
 兎吉が喘ぐように息を継ぎながら、強い語気で抗弁する。清太は再び兎吉を振り返る。
「御劔は持つ者の本性を映し出す鏡。欲に穢れた乙護法や、久秀、そして、お前のような者は御劔に惹き付けられて欲望を膨張させる。そういう欲望に塗れながら、御劔は数多の血を吸うことで魔性の剣へと変化(へんげ)するのかもしれぬ。しかし、それは御劔の本質ではない。御劔は浮世から離れた清浄な場所に鎮座して、仏法と静謐な暮らしを守護する多聞天の聖剣であるはずだ。」
「表裏一体、どちらもその剣の本性よ。」
 兎吉が苦しげに呼吸をしながら小さく叫ぶ。
「お前の言う通りかもしれぬ。結局、御劔は持つ者の心を正直に映し出しているだけに過ぎぬ。ただ、御劔をこれ以上血で穢さぬため、いや、今回の御劔を巡る魔性の輪廻を断ち切るため、わたしは最後に残ったお前の血と命だけは御劔の犠(にえ)にはしない。」
 清太にとって、兎吉に唆された総馬と、それと刺し違えた亥介、さらに、兎吉に討たれた弥蔵、この三人の命の代償として、満身創痍で眼前に倒れている兎吉の命を奪うことは容易い。しかし、その行為は御劔という人智を超越した場所から見れば、欲望のままに振る舞う乙護法や久秀などと同類の所業であり、御劔がその行為を邪とすれば、清太でさえもこの背徳と復讐の無限の連鎖に引きずり込まれてしまうだろう。
「今、殺されなくとも、どのみち、わしは織田の将兵どもに嬲り殺される。結局は、わしも御劔の魔性に呑み込まれたも同然よ。」
 兎吉が息も絶え絶えながら、悪態をつく。
「お前がどうなるかは、御劔の意思とは別に神仏が決めればよい。確かにかなりの深手を負っているようだが、お前とて峡では名の知れた技倆の持ち主だ。深手を負っていようとも、雑兵程度なら韜晦して生き延びることもできるだろう。」
 清太は、
―今度こそ、この場を離れる。
という断固とした決意で反転して、兎吉に背中を向ける。
「平次郎殿、急ぎましょう。乙護法が、黄泉に行く寸前のわたしに御劔の在処を暗示しました。朝護孫子寺の毘沙門堂へ参ります。」
「本当にこの男を許すのか。」
 平次郎が兎吉を見下ろしながら、清太にもう一度問い掛ける。しかし、清太は平次郎の問いに答えることなく、既に駆け出していた。

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