第十八章 剣山(1)

 清太が吉野川の河畔をゆっくりと東進する。前日までの雨で川は増水しているが、峡を出立した日に比べれば水嵩は少ない。あの日、初めて俗世へと旅立つ清太とともに吉野川を下った弥蔵、亥介、そして、総馬はこの世にいない。それを思うと、清太の胸中に寂寥が広がる。
 清太の視界が本流吉野川と支流貞光川の合流点を捉える。
「あそこで南に進路を取って、支流に沿って上ります。」
 清太は大きな流れの乱れを指差しながら、背後を振り返る。
「剣のお山はいずこでしょうか。」
 清太の背後を歩くよしのが左手に視線を移し、錦秋の盛りを越えた山々を眩しそうに眺めながら、弾むような口調で尋ねる。
「剣山はあの山並を越えたさらに向こう側です。まだここからは見えません。」
 清太が微笑みながら答える。よしのはこれから人生の大半を過ごすであろう峡の美しく、厳しい自然を想像しながら、左手に雄大に広がる遠い山並を透き通った瞳で見つめる。
「峡まではあとどのくらいかな。」
 よしのと並んで歩く平次郎が尋ねる。
「ここからはこれまでとは比べものにならぬ険路です。よしのさんのことを考えて、二泊をかけようと思います。」
「それが宜しいでしょう。わたしも霊場剣山の険路は噂に聞いたことがある。」
 清太が再びよしのに視線を移す。
「よしのさんは峡に入れば、一人で下界に戻ることはできないでしょう。それでも宜しいですか。」
 清太がよしのの意思を確かめる。
「わたしは清太さんについて参ります。」
 清太は、よしのの揺るぎない決意を確認して、微笑み返す。
「わたしもしばらく峡に滞在して、毀誉褒貶のない場所で兵法を極めてみたい。」
「部丞達も拒むことはないでしょう。それに、平次郎殿が峡にいれば、乙護法は御劔に手を出せませぬ。」
 信貴山城から脱出したあと、清太は改めて、平次郎が乙護法を駆逐できた理由を、尋ねた。
 平次郎は、
―闇の世界で乙護法という呼称をもって知られる術者であれば、薬と術を使ってどんな人間もほぼ思い通りに操ることができるだろう。しかしながら、妖術や幻術は万能ではない。よほどの術者でもまれに術の効かぬ相手が存在すると言う。これは術や兵法の巧拙如何ではなく、術者とその相手との相性のようなもの。乙護法にとって術が効かない相手が、偶然にもわたしだったということだろう。しかし、清太殿が地溝の割れ目に墜ちる寸前で生還できたのは、わたしが乙護法を斬ったからだけではなく、清太殿の生きることに対する強い想いが妖術に勝(まさ)ったからだ。
と説明した。
「わたしも含めて峡衆に兵法を教授していただければ、なお一層、助かります。」
 清太が平次郎に懇願する。
「兄上が一緒に居て下されば、わたくしも心強い。」
 よしのはぎこちない口調で「兄上」という言葉を使う。
「よしのさんは、このままよしのさんとしてこれからの人生を清太殿と一緒に歩いていくのが、一番の幸せでしょう。記憶が戻れば、辛い過去を思い出すかもしれない。わたしは清太さんとの縁で峡に行くだけで、よしのさんはわたしのことを気にすることはない。」
 平次郎は兄らしい慈愛に満ちた口調でよしのを諭しつつ、敢えて「加枝」とは呼ばなかった。
 三人は吉野川と貞光川の合流点に達する。
「ここからは次第に険路になります。一度、休憩しましょう。」
 清太は手頃な転石によしのを腰掛けさせ、湧き水を汲んだ竹筒を手渡したあと、弥蔵の形見の小太刀を腰に差したまま、最寄りの岩壁に自分の杖を置き、さらに、御劔を収めた布袋を背中から下ろして、その横に立て掛けた。

 三人は吉野川の河畔を外れ、貞光川の渓谷に沿って奇岩奇石を踏みながら、一歩一歩進んでいく。頭上を見上げると、晩秋の紅葉に彩られた山陵の裂け目から透き通るような碧い空が覗く。
「綺麗…。」
 よしのが空を仰いで、呟く。
 狭隘な碧い空から降り注ぐ柔らかな陽光が、三人が歩く清流の渓谷を、温かく満たしていた。

    完

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