950(1573)_==天正1年(元亀4年)==【旧版】

>_<あくまでも司空流の「こうかも」年表ですので、誤りがあっても司空は一切の責任はとりません。>_<
>_<ご利用に際しては、解説・注意をご確認の上、各人で十分に史実をご確認ください>_<


 元亀4(1573)4月、天正に改元。
 天正1(1573) ?月、吉川元長が、旧名の元資から元長に名乗りを改める。
 天正1(1573) ?月、この頃の伯耆の有力者は南条氏。南条氏は佐々木源氏の庶流で、14世紀頃に南条氏の祖伯耆守貞宗が伯耆河村郡羽衣石に羽衣石城を築城したことに始まる。南北朝/室町期には東伯耆にまで勢力を伸長。羽衣石城から数㌔離れた長和田に城下町を形成。
 天正1(1573) ?月、織田信長が羽柴秀吉/武井某に命じ、小早川隆景宛に書状。小早川隆景から因幡/但馬の情勢について報告を受け、近日中に京都に入り、但馬出兵の日限を毛利方に連絡するという内容。この時期、織田信長は伊勢一向一揆の鎮定に当たっていたため実質上但馬出兵は無理だった。
 天正1(1573) ?月、山中鹿之助、立原久綱ら、織田信長に接見。>はじめ柴田勝家を通じて織田信長に援助を願った(同年1212日付け安国寺恵瓊の書状より)とも、明智光秀を頼ったとも>最終的には、明智光秀を頼ることになり、明智光秀の先陣を命じられた>織田信長は尼子氏への援助を約しながら、毛利氏にはこれを断ったと回答。
 天正1(1573)?月、宇喜多直家、沼城から石山城に移る。//この頃の直家は天神山城浦上宗景の重臣。亀山城を弟春家に守らせる。
 天正1?月、宇喜多、毛利が同盟。
 天正12月、足利義昭、織田信長に反旗を翻す。
 天正126日、山城国岩倉の山本・渡辺・磯谷ら、織田信長に背く。
 天正1210日、山城国岩倉の山本・渡辺・磯谷ら、織田信長と戦うため、近郷に在陣。
 天正1211日、吉田兼見、明智光秀に使者をやり、陣中を見舞う。
 天正1年、足利義昭,松永久秀・三好義継と和睦。
 天正1年、織田信長,朝山日乗・島田秀満・村井貞勝の三人を足利義昭の所にやり,人質と誓紙を差し出させて和睦を図ろうとするも,足利義昭がこれを断る。
 天正1214日、織田軍が石山本願寺/今堅田城を攻撃。
 天正1222日、浅井長政,武田家家臣穴山信君(梅雪斎)に『信玄が尾張・美濃へ発行するよう頼む。義昭は兵を挙げた。義昭の信玄への内書を差し上げる。滋賀郡は此方の手に属した。義景も出馬を決定した。』旨の書状を送る。
 天正1222日、織田信長,足利義昭に十七ヶ条の意見書を送る。
 天正1224日、織田信長,柴田勝家・明智光秀・蜂屋頼孝・丹羽長秀の4人に命じて,近江石山を攻める。//近江石山は足利義昭が光浄院暹慶や磯貝(磯谷)新佐衛門に命じて,伊賀・甲賀のものにより作らせた砦。また,今堅田の砦にも人数を入れる。
 天正1226日、柴田勝家・明智光秀・蜂屋頼隆・丹羽長秀,近江石山の砦を落とす。
 天正1226日、浅井長政,勝興寺に宛てて,『足利義昭が13日に朝倉義景,浅井長政に内書を与えたといい,甲州勢が東美濃に乱入し,義景も当表に進発を決定した。本願寺と謙信との間に和議が持ち上がっているというが,だまされるな。信玄と相談せよ』との書状を与える。
 天正1228日、織田信長,佐久間信盛・羽柴秀吉・明智光秀ら5千の兵を上京させて,義昭を取り巻く連中を成敗しようとする。(『尋憲記』による)
 天正1229日、明智光秀、近江今堅田を攻め、これを落とす。//このとき、千秋輝季が戦死。明智光秀は囲船をこしらえ,舟手の方を東から西に向かって攻め,丹羽長秀・蜂屋頼隆は辰巳(南東)の角から戌亥(北西)へ向かって攻める(同年4月にも同様な記録)
 天正1?月、柴田勝家・明智光秀・蜂屋頼隆・丹羽長秀,足利義昭の乱による近江の戦を平定。明智光秀は近江坂本に在城し,勝家・頼隆・長秀は帰陣。
 天正136日、足利義昭,松永久秀宛に『京都へ上ってくるそうだがめでたい。足利家のことについて奔走を頼む』旨の内書を送る。(『尋憲記』による)
 天正136日、松永久秀,河内国津田城まで赴く。
 天正138日、織田信長が足利義昭に調停の使者として送っていた島田秀満が京都を去る。//織田信長,足利義昭,和睦交渉決裂。
 天正1329日、細川藤孝・荒木村重,織田信長の上洛を逢坂まで出迎える。この際,織田信長が村重に大郷の腰物,藤孝に名物の脇差(貞宗の脇差)を与える。
 天正1329日、織田信長、足利義昭の平定のため岐阜から上洛し、知恩院に宿泊。丹羽長秀は聖護院に、明智光秀は鴨付近に陣取り。
 天正1329日、織田信長が上京を焼き討ち。(4/4にも同様な記録)
 天正1330日、足利義昭が兵を出して,付近にある村井貞勝の屋敷を囲む。
 天正1330日、吉田兼見,明智光秀に趣向を贈り,陣中を見舞う。
 天正142日、織田信長,禁裏から女房奉書と金襴一巻とを下賜される。//万里小路惟房が使いとして吉田兼見のところを訪れ,兼見が信長本陣に至って,村井貞勝によって信長に披露された。
 天正14月、織田信長が琵琶湖畔の近江佐和山において大船を作ることを命じる。足利義昭が叛旗をひるがえした場合の備え。足利義昭の謀反を聞き、同年79日にこの大船を利用して上洛して迅速に対応(2/29にも同様な記録)
 天正144日、織田信長,等持院に陣して,足利義昭を二条城に囲む。
 天正144日、織田信長、京都市中を焼き討ち。(3/29にも同様な記録)
 天正144日、明智光秀・細川藤孝を大将として,下賀茂から洛中を焼き立てる。(『北野拾葉』より)
 天正144日、正親町天皇,関白二条晴良らを織田信長の所に送り,和睦を諭す。(『兼見卿記』より)
 天正144日、織田信長,勅使を受けて,織田信広・佐久間信盛・細川藤孝らを足利義昭のところに遣わす。(『兼見卿記』より)
 天正147日、正親町天皇,関白二条晴良らを足利義昭と織田信長の所に送り,和睦を諭す。(『御湯殿日記』より)
 天正148日、織田信長,京都を発して,岐阜に帰る。
 天正1412日、武田信玄、信濃駒場で逝去。
 天正1426日、ルイスフロイス,京都から『総司令官柴田殿,坂本の守将明智,勝竜寺城の細川兵部大輔,茨木の守将荒木信濃などがところどころを焼いた』旨の書状を出す。(『日本耶蘇会年報』より)
 天正1524日、明智光秀で、西教寺に寄進状を提出。
 天正1613日、足利義昭,毛利輝元の将吉川元春に書状を与えて,『信長と断交したから諸城の守備を厳重にするように申しつけた。兵糧を馳走してくれ』と申し入れる。
 天正1621日、尼子勝久/山中鹿之助ら因幡国に侵攻し、武田高信と戦う。以後、因幡国を転戦。
 天正1628日、明智光秀、坂本城にあって、吉田兼見・里村昌叱(しょうしつ)と連歌興行を催す。
 天正173日、足利義昭,三淵藤英に二条城を守らせ,槇島に移り,反信長の態度を明らかにする。//三淵藤英は三淵晴賢の嫡男で、細川藤孝の異母兄にあたる。
 天正179日、織田信長、上洛。琵琶湖を大船利用。足利義昭の謀反を聞いて上洛。
 天正1718日、織田信長、足利義昭を槙島城に攻める。
 天正17月、足利義昭、信長に子供を質として開城し、一旦枇杷荘に退き、ついで三好義継の河内若江城に入る。
 天正17月、織田信長が足利義昭の籠もる山城槇島城を落とし、足利義昭を追放。その後足利義昭は流浪。
 天正17月、室町幕府滅亡。
 天正1(1573)7月頃、吉川元春が但馬の山名祐豊/奈佐日本之助、因幡の山名豊国らを討伐するため富田城を進発し、八橋を経て因幡気高郡篠尾に着陣。>山名豊国らは吉川元春にくだり、吉川元春は富田城に帰還
 天正1(1573)7月頃、尼子勝久らが因幡鳥取城下に出陣。>この頃毛利方の吉川元春は但馬/因幡攻略を終え、富田城に帰還。
 天正1722日、織田信長,近江の木戸・田中両城を落とし,これを明智光秀に宛行う。
 天正17月、織田信長、天正一年四月に足利義昭との戦いの際に京都市中を焼き払ったことを気の毒に思い、地子銭・諸役を免除した。//村井定勝発信書状。
 天正1722日、織田信長、足利義昭攻略を終え、一旦、京都を離れ、帰国。
 天正181日、因幡鳥取城主武田高信、山中鹿之助を甑山(コシキヤマ)城に攻めて敗北。甑山城は山頂を切り開き、塀櫓を構え、人数を籠め兵糧・弓鉄砲・玉薬等丈夫に用意していた模様。敗退した武田高信は鳥取城に籠城。「たのも崩れ」と呼ばれる。
 天正18月、尼子勝久/山中鹿之助ら、武田高信の籠もる鳥取城を攻撃。するが、容易には落ちず。
 天正1810日、織田信長、浅井氏討伐のため、近江出陣。
 天正1813日、織田信長、朝倉軍を追撃。
 天正1817日、織田信長率いる織田軍が木ノ目峠を越えて越前に乱入。朝倉義景は本拠である越前一乗ヶ谷城から大野郡山田荘の賢松寺に逃れる。
 天正1819日、尼子勝久/山中鹿之助ら、因幡国用ヶ瀬城を攻める。
 天正1820日、朝倉義景が一族の朝倉景鏡により切腹させられる。
 天正1821日、織田信長が朝倉氏討伐を完了。朝倉氏は滅亡。
 天正1826日、織田信長が越前から近江虎御前山へ引き上げる。//前波長俊を越前の守護代として,また,北ノ庄に津田元秀・木下祐久・明智光秀の三人を奉行として残しおく。
 天正1826日、羽柴秀吉が近江小谷城の京極丸(?)を攻める。
 天正1827日、織田信長が越前から近江に引き上げ,浅井長政を小谷城に攻める。
 天正1829日、浅井長政,切腹。//その後,近江北部の浅井氏の旧領を羽柴秀吉に与え,秀吉は長浜に築城。(9/1との記述も)
 天正18月末頃、毛利輝元、羽柴秀吉に宛て、『足利義昭が京都に帰れるように、秀吉から信長に取りなして欲しい』との書状を送る。//9/7に返書あり。
 天正191日、織田信長が小谷城を落とす。浅井氏は滅亡。(8/29との記述も)
 天正1年、羽柴秀吉が織田信長から江北3郡(坂田郡、浅井郡、伊香郡)を宛行われる。
 天正195日、明智光秀・滝川一益と連署で,北ノ庄の軽物座の諸役以下免除の書状を発行。
 天正197日、羽柴秀吉、毛利輝元宛てに『信長が同心したから義昭の近臣上野秀政・真木島昭光に毛利氏の使者柳沢元政を添えて、上(の)ばすように、この方のことは自分が運動する。なお、朝山日乗から手紙を差し上げる』旨の書状を送る。//8月末頃の書状の返書。
 天正197日、前波長俊,明智光秀・丹羽長秀に宛てて,大野郡宝慶寺の寺領安堵の織田信長の朱印状が欲しいので取りはからって欲しい旨の書状を出す。
 天正19月、尼子勢、因幡鳥取城を攻略、落城。城主武田高信は城兵を落としたうえで、高島郡尾城に移ったと伝えられる。>山名豊国を援助か?
 天正19月中旬、羽柴秀吉、江北3郡(坂田郡、浅井郡、伊香郡)の検地を行う。//1223百石。検地奉行立木伝助通治、杉原七郎左衛門家次、一柳直次。
 天正1920日、明智光秀・滝川一益,連署で三ヵ村の軽物商人中に宛てて,軽物座長を信長から橘屋三郎右衛門尉に命じたことを通達。
 天正1926日、羽柴秀吉、伊勢国西別所の一揆を攻める。
 天正19月、明智光秀・滝川一益,連署で越前の地侍や社寺に所領安堵状を発行。
 天正110月、毛利勢吉川元春、元資/元長以下の山陰主力軍を率い、伯耆八橋(東伯町八橋)に出陣し、ついで因幡篠尾に進み、山名豊国/山名佑豊/奈佐日本助らが降伏し、因幡/但馬の尼子勢力は消滅。
 天正110月、吉川元春/元長父子、7千余の兵で伯耆国から因幡国に進攻。因幡鳥取城主山名豊国は戦わず降伏。隣国但馬国の山名祐豊をはじめ但馬衆の多数も毛利家に降伏。
 天正11012日、羽柴秀吉、小早川隆景に浅井、朝倉家が滅亡したことを報告。
 天正11122日、明智光秀、実相院に宛てて、寺領安堵の書状を発行。
 天正11126日、織田勢が若江城を攻め落とし、三好義継を自害に追い込む。
 天正11212日、安国寺恵瓊、宇喜多直家と面談、来春の備前広瀬への侵攻を相談。
 天正11212日、安国寺恵瓊、国許の毛利家家臣井上春忠らに、秀吉と信長の将来を予言する書状を送る。//この際、羽柴秀吉が来年2月に但馬に入るとの情報も流す。
 天正11216日、明智光秀、村井貞勝と連署で、入明僧策彦周良に宛てて、妙智院の寺領安堵の書状を発行。
 天正11226日、松永久秀が多聞山城を開城し、織田信長に降伏・帰参。//元亀3年~天正1年にかけて松永久秀・三好義継は織田信長に対して反乱。
 天正1年冬頃、山中鹿之助ら、織田信長の援助を受け、因幡国進出を狙う。
 天正112月、尼子勝久、山中鹿之助/立原久綱/神西三郎左衛門/森脇久ヨリ/横道兄弟/牛尾大炊助/亀井茲矩らを率い、京都を発って、但馬に向かう。
 天正11211日、毛利勢、因幡気多郡鹿野城の在番を野村士悦に命じる。鹿野城は因幡/伯耆の国境に存在する重要拠点。
 天正112月、吉川元春ら毛利勢、因幡平定を完了し、出雲富田城へ帰還のため因幡を出発。
 天正112月、足利義昭、朝山日乗、秀吉、安国寺恵瓊の四人が堺の松井友閑の屋敷で足利義昭の信長に対する謀反調停のため会談。

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