950(1576)_==天正4年==【旧版】


20120513_木津川河口の戦い(H4.11.6)は誤記のため削除しました!

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>_<ご利用に際しては、解説・注意をご確認の上、各人で十分に史実をご確認ください>_<



 天正4年(1576)、播磨国人の三木城主別所長治が織田信長に従う。
 天正4年(1576)1月、織田信長が右大将に昇任。毛利氏から祝いの太刀、馬などが届く。
 天正4年(1576)1月、丹波国波多野秀治、織田軍に反旗を翻す。明智光秀は敗戦により退却。山中鹿之助、殿軍を務める。
 天正4年1月中旬、毛利氏が上洛作戦に関して吉田郡山城で評定し、作戦を決定。
 天正4年1月中旬、織田信長、安土城の築城を開始。(同年4月とも)
 天正4年1月、吉田兼見、丹波にて敗戦の明智光秀を京都北白川に見舞う。
 天正4年1月21日、明智光秀は丹波攻略中のところ近江坂本城へ戻り、兵の休息を促す。
 天正4年1月、吉田兼見、近江坂本を訪れ、明智光秀と面会。
 天正4年1月23日、織田信長、美濃岐阜から安土に移る。
 天正4年2月6日、毛利元康/杉原盛重ら、尼子氏の属城因幡宮吉城を攻略する。
 天正4年2月8日、足利義昭が紀州由良から備後鞆の津に到着。側室や上野重政、畠山昭賢、真木島昭光、武田信景、春阿弥ら側近・同朋衆20余名。⇒毛利氏に対して幕府再興のための挙兵を促す。上杉謙信に対しても新たに働きかけを始める。
 天正4年2月18日、明智光秀、丹波攻略のため、再度、出陣。
 天正4年2月23日、織田信長、美濃岐阜城下の佐久間信盛の屋敷から近江安土へ移る。
 天正4年3月、原田直政,松永久秀の子久通が土市城(奈良県橿原市)に土市遠長を攻めた際に調停する。
 天正4年3月11日、織田信長、吉川元春の歳首の礼に応え、山中鹿之助らを庇護しない旨を回答。
 天正4年4月、織田信長が安土城の築城を開始(同年1月とも)
 天正4年4月、石山本願寺が織田氏に対して和睦を破り、再度挙兵。この時、織田信長は荒木村重・細川藤孝・明智光秀・原田直政の四人を中心とした大軍を催し、石山本願寺攻略に向かう。石山本願寺方の戦意旺盛のため、その後、原田直政が討死、織田信長自身も鉄砲で足を負傷。//光秀・藤孝には東南の森口と森河内とに砦を築かせ、また、明智光秀とを原田直政の築いた天王寺砦に入れた。佐久間信盛は5/5に京都を出陣。
天正4年4月14日、織田信長が摂津石山本願寺攻略のため、近江安土を出陣。//出陣には羽柴秀吉も同行するが、竹中半兵衛や浅野弥右衛門、宮部善祥坊らは安土城普請のために近江に残る。
 天正4年5月1日、織田信長,京都に在中
 天正4年5月3日、原田直政が大将となり、三好康長・根来衆・和泉衆の三津寺を攻めたが、かえって敗戦し、原田直政が討ち死。(信長公記より)
 天正4年5月3日、織田家臣原田直政、三好康長らが石山本願寺の三津寺砦を攻めるも、本願寺方の反撃を受け、直政が討死。
 天正4年5月4日、原田直政が討死(『兼見卿記』,『多門院日記』より)。//原田直政の死により、その後大和奈良の支配は筒井順慶に委ねられることになる。
 天正4年5月5日、織田信長,原田直政の戦死の報に接し,佐久間信盛を先鋒として出陣。
 天正4年5月5日、石山本願寺の一向一揆,天王寺の砦を攻め,佐久間信盛・明智光秀らを囲む。
 天正4年5月7日、織田信長が、自身、天王寺に押し掛け,敵の砦を両方から攻め,一揆を破って,籠城の兵を救う。
 天正4年5月7日、織田信長,荒木村重に命じて,木津城を攻めさせ,これを陥とす。
 天正4年5月7日、尼子勝久/山中鹿之助らの籠もる因幡若桜鬼ヶ城を攻略/落城。毛利軍杉原盛重/草刈重継らによる>尼子勝久/山中鹿之助らは丹波に逃れる>その後の尼子勝久/山中鹿之助らの足取りは不明>最終的には山中鹿之助/立原久綱/亀井茲矩らが再度京に上り織田信長に属する>さらに織田家の但馬方面軍である明智光秀の軍勢に加わり、但馬八木城攻略や丹波籾井城攻略戦に加わっていたのではないか???→この見解が正しいように思われる。天正4年の若桜鬼ヶ城落城をもって尼子勝久/山中鹿之助は因幡を退き、明智光秀に属して丹波攻略を手助けしたのではなかろうか?←
 天正4年5月11日、大阪石山本願寺一向一揆と織田信長の争いに対して,勅使が下向。
 天正4年5月12日、吉田兼見,大阪の戦を見舞うため,京都を出発し,天王寺に至って,細川藤孝を見舞い,天王寺に宿泊。
 天正4年5月13日、吉田兼見,大阪在陣中の織田信長の元を訪れ,物を贈り,ついで,細川昭元と明智光秀を訪問。
 天正4年5月、織田信長、大坂に一向一揆を攻めて京都に凱旋。二条妙覚寺を宿所とする。
 天正4年5月、毛利氏が織田氏と断交。淡路島岩屋に拠点を確保し、石山本願寺への兵糧輸送等、援助に備える。
 天正4年、織田信長、毛利氏との対決にあたり九州大友氏に対して、島津との和睦と毛利氏への牽制を依頼。
天正4年5月18日、上杉謙信が本願寺光佐と和睦する。
 天正4年5月下旬、毛利水軍が石山本願寺救援(兵糧搬入)のため、出陣。兵糧船600余、警護船300余艘。
 天正4年6月、毛利水軍が淡路島を占領。
 天正4年6月5日、織田信長が摂津石山本願寺の周囲に10箇所の砦を築いたことを確認し、安土への帰路に着く。
 天正4年6月6日、織田信長,大阪石山本願寺攻めから,一旦京都に帰る。
 天正4年6月23日、明智光秀,病のため大阪の陣から京都に戻り,間直瀬道三の治療を受ける。
 天正4年6月24日、明智光秀の妻,吉田兼見を訪問し,光秀の病気平癒の祈祷を依頼。
 天正4年6月27日、織田信長,明智光秀の元に,病気見舞いの使者を送る。
 天正4年7月、明智光秀,同年6月から患っていた病が平癒。//吉田兼見,近江坂本に光秀を訪問。
 天正4年7月12日、毛利水軍と紀伊雑賀衆が和泉貝塚で合流。 
 天正4年7月13日、木津川河口の戦い(第1回:毛利水軍の勝利)
 天正4年7月13日、毛利水軍が和泉堺、摂津住吉を経て大坂木津川口へ至る。織田水軍を破り、本願寺に兵糧を搬入。この第1次木津川口の戦いが毛利勢と織田勢にとって歴史上最初の衝突であり、織田氏と毛利氏が全面的な敵対関係となる。
 天正4年7月13日、毛利、小早川、宇喜多水軍が大坂木津川口で織田水軍を撃破し、石山本願寺に兵糧を搬入。
 天正4年7月、羽柴秀吉が、織田信長から播磨経略を命じられる。//おそらく木津川河口の戦いにより毛利氏と完全な敵対関係になったことを受けたものだと思われる(中国攻めの総大将を命じられるのは天正5年冬頃?)
 天正4年8月、上杉謙信が越中に出陣し、氷見(ヒミ)を攻める。
 天正4年9月、織田方の浦上宗景、備前天神山城(岡山県和気郡佐伯町)を家臣の宇喜多直家に攻略される。浦上宗景はそれまで織田方の勢力範囲の西限に位置していたが、宇喜多直家により失脚。この時、宇喜多直家は毛利方に通じていた。→この後紆余曲折を経る!浦上宗景の失脚に西播磨周辺の國人衆も動揺し毛利方に寝返り始める。←
 天正4年9月13日、宇喜多直家の兵、播磨上月城を攻略。
 天正4年10月12日、細川幽斎が三条西実枝からの古今伝授を修了。
 天正4年10月27日、明智光秀が上洛。
 天正4年11月25日、織田信長が、北畠家中の者に命じ、隠居の伊勢国司具教を討つ。
 天正4年11月25日付、吉川元春が起請文。安芸で吉川元春の意を受けた伯耆堤城主山田出雲守重直、南条氏を毛利方に引き留めるため、南条家中にあった福山次郎左衛門とその一族を自邸に招き、討ち果たした(天正4年頃)ことに対して、福山以下の逆臣明白とし、山田重直が福山を討ち果たしたことを毛利家にとって本望であるとしている。織田家の中国方面担当であった羽柴秀吉は因幡/伯耆の有力部将に対して調略を進めていたが、南条氏やその重臣福山氏にも勧誘の魔手が届いていたと思われる。→後年、南条元続は羽柴秀吉に通じ毛利氏と対抗する結果になる。←
 天正4年末、上杉謙信が北陸の一向一揆と和睦し、上洛の準備を整える。//織田信長は当初石山本願寺との戦闘を天正4年内程度で終結すると見積もっていたが、上杉謙信と北陸一向一揆との和睦で戦略に齟齬を生じた。
 天正4年?月、織田信長、安土城を竣工。

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