950(1577)_==天正5年==【旧版】

20120507_修正しました。(三木城別所長治が毛利方に就いたのは天正6年でした)
20130527_上杉謙信関係の動きを追加

>_<あくまでも司空流の「こうかも」年表ですので、誤りがあっても司空は一切の責任はとりません。>_<
>_<ご利用に際しては、解説・注意をご確認の上、各人で十分に史実をご確認ください>_<




 天正5年(1577)、宇喜多直家、主君浦上宗景が織田氏と結んだことを理由に天神山城を攻め落とす。
 天正5年(1577)、宇喜多直家が天神山城を攻めて、浦上宗景を追放。(天神山城の落城については天正3年説と5年説があるが、天正3年説が有力か?)
 天正5年(1577)2月9日、織田信長が雑賀攻略のために安土城を出陣し、上洛。//織田軍は総勢12万とも。
 天正5年(1577)2月、織田信長自ら紀州雑賀一揆(石山本願寺の鉄砲隊の主力をなしていた)を討伐、3月半ば頃まで戦い、雑賀衆を降伏させる。
 天正5年2月、羽柴秀吉、紀州雑賀衆征伐に、4400余の軍勢を率いて従軍。
 天正5年、別所長治が、織田信長の紀州雑賀討伐に従軍。
 天正5年(1577)2月13日、織田信長,紀州征伐のため,京都を進発。
 天正5年(1577)2月15日、織田信長,紀州征伐のため,和泉に入る。//根来寺が味方し,貝塚(大阪府貝塚市)の一揆は潰走。
 天正5年3月、上杉謙信が、関東諸将からの出陣要請を受け、出陣していた能登国から春日山城に戻る。//小田原城主北条氏政が関東の上杉方諸城を攻撃したため。
 天正5年3月1日、織田信長,明智光秀・滝川一益・蜂屋頼隆・丹羽長秀・細川藤孝・筒井順慶らをやって,一揆の大将雑賀党鈴木孫一の居城を攻める。
 天正5年、足利義昭・毛利輝元が、上杉謙信に宛てて、織田信長が紀州雑賀攻めに出陣し、京都奪還の好機であることを知らせ、上洛を促す。
 天正5年3月2日、織田信長,鳥取郷(大阪府泉南郡)に陣を置き,堀秀政・不破河内らを根来口に向かわせる。
 天正5年3月15日、織田信長が鈴木孫一ら雑賀衆に朱印状を発し、赦免を受け入れ。(3/21との説も)
 天正5年3月21日、鈴木孫一・土橋平次らの七人の紀州一揆衆,織田信長に連署の誓書を出して,織田信長に下る。(3/15との説も)
 天正5年3月22日、宇喜多氏が播磨国境を越え、竜野城(赤松広秀)を攻撃。
 天正5年3月23日、織田信長,紀州佐野村に砦を築き,佐久間信盛・丹羽長秀・羽柴秀吉・荒木村重・明智光秀を留めて,紀州を発ち,帰路につく。
 天正5年3月25日、織田信長、紀州雑賀攻めの帰途に上洛。宿所は妙覚寺。
 天正5年3月27日、織田信長,安土城に帰城。
 天正5年5月、宇喜多直家ら備前・美作の軍勢が国境を越え播州龍野へ進攻し、合わせて毛利水軍が室津(揖保郡御津町)に上陸し、播磨一向一揆の拠点英賀城に進むも、御着城主小寺政職とその家老黒田官兵衛孝高が反撃。//これを契機に織田方は対毛利戦略に傾注し、播磨情勢が緊迫する。
 天正5年5月頃?、宇喜多直家が浦上宗景の嫡男与次郎を毒殺。(天正3年か?)
 天正5年6月、織田信長が安土城下に「近江安土山下町中掟書」 を発布する。 
 天正5年(1577)6月頃以降、黒田官兵衛孝高が羽柴秀吉に宛て、播磨や中国情勢を説いた書状を送るようになる。
 天正5年、織田信長が陸奥の伊達輝宗に上杉謙信に対する東からの牽制を依頼する書状を発信。
 天正5年閏7月7日 織田信長が安土城で茶会を開催。
 天正5年7月頃、羽柴小一郎秀長、竹中半兵衛、前野将右衛門、蜂巣賀小六、加藤光泰ら羽柴勢が、織田信長の命により、北陸方面出陣のため、石山本願寺包囲用の天王寺砦在番の任を解かれ、交代に松永久秀・久通父子が天王寺砦の在番となる。
 天正5年(1577)、長続連の援軍要請を受けていた織田信長が。七尾城を救援する軍勢の派遣。
 天正5年閏7月17日、上杉謙信が能登国天神川原に陣を張る。//この頃、能登七尾城内では伝染病が流行し、城主畠山義隆はじめ多数の城兵が病死。
 天正5年閏7月、上杉謙信が能登七尾城(石川県七尾市)攻めのため、春日山城を越中へ出陣。//上杉謙信の能登進攻を受け、長綱連は弟孝恩寺宗顫(後の長連龍)を安土城の織田信長のもとに送り、来援を乞う。//長綱連は長続連の嫡子で、七尾城主畠山義隆が病死した後、七尾城を死守していた。
 天正5年(1577)、織田信長が長続連の援軍要請を受け、七尾城を救援する軍勢の派遣。
 天正5年、上杉謙信が、七尾城内の遊佐続光に密書を送り、畠山氏旧領を与えるという条件で味方に誘う。
 天正5年8月、柴田勝家を総大将とし、羽柴秀吉・滝川一益・丹羽長秀・前田利家・佐々成政ら三万余の軍勢が越前北ノ庄城に結集。
 天正5年(1577)8月8日、織田信長、柴田勝家を総大将として先陣に佐久間盛政、佐々成政、滝川一益ら尾張衆、これに続き氏家直昌、不破光治、金森長近、斎藤長龍ら、さらには前田利家と羽柴秀吉が後軍となり、北国軍(上杉謙信への備え)を編成して加賀へ進攻。
 天正5年8月8日、織田軍が七尾城 へ向けて越前国を出発。その後、加賀国へ入って一向一揆勢と交戦しつつ進軍。しかし、途中で秀吉が、総大将の勝家と意見が合わずに自軍を引き上げてしまう 。
 天正5年8月17日、松永久秀が織田信長に謀反し、石山本願寺包囲網の持ち場(天王寺の付け城)を離れ、居城大和信貴山城に籠もり謀叛。
 天正5年(1577年)、松永久英が、上杉謙信、毛利輝元、石山本願寺などの反信長勢力と呼応して、本願寺攻めから離脱。大和信貴山城に立て籠もり再度織田信長に叛旗を翻す。織田信長は松井友閑を派遣し、理由を問い質すが、松永久英はこれを黙殺。
 天正5年8月、織田信長が、信貴山城に籠って反旗を翻した松永久秀を攻めるため、嫡子織田信忠を大将として、佐久間信盛らを添えて派遣。(前後関係が合わないので日付は疑わしい。)
 天正5年8月末or9月1日、羽柴秀吉が、北陸討伐軍の総大将柴田勝家と意見が合わず、途中で戦線を離脱。//その後、羽柴秀吉は織田信長の勘気に触れ、謹慎を申し付けられる。
 天正5年9月5日、羽柴秀吉が、近江長浜に帰還。北陸方面の戦場を独断で放棄した。
 天正5年9月7日、羽柴秀吉が、弟小一郎秀長、竹中半兵衛、前野将右衛門、蜂巣賀小六らに120名の兵を付けて播磨に派遣//毛利氏による石山本願寺への兵糧搬入や松永久秀の謀反などで播磨の情勢が変化。//この際には、羽柴秀長、竹中半兵衛らは、黒田官兵衛のことを信じ切ってはいなかったかもしれない。
 天正5年9月、織田信忠が、大和信貴山城の松永久秀攻略のため、1万5千を率いて近江を通過。//この際、謹慎中の羽柴秀吉が、浅野弥兵衛を織田信忠の陣所に遣わして、弁明と織田信長への執り成しを依頼。
 天正5年9月、上杉謙信、能登七尾城を囲む。
 天正5年9月13or15日、上杉謙信、能登七尾城を落とす攻略。//七尾城内の遊佐続光が温井景隆を誘い、親織田派の長氏一族百余人を殺害し、上杉謙信に寝返り。
 天正5年9月18日、柴田勝家率いる織田北陸方面軍4万8千が加賀手取川に到着し、渡河する。水島という所に本陣を置く。//既に七尾城は落城。
 天正5年9月22日、羽柴小一郎、竹中半兵衛、蜂須賀小六、前野将右衛門らが播磨から近江長浜に戻り、播磨の情勢を報告。//三木城主別所長治、御着城主小寺政職らの播磨国人衆は織田信長に忠節を尽くす心に変わりなく、姫路城主黒田官兵衛(当時、小寺氏家老)が嫡子松寿丸を人質として織田信長に差し出したことを報告。
 天正5年、羽柴秀吉が、黒田官兵衛が差し出した人質松寿丸を伴い、安土城に出かけて、林佐渡守を頼り、北陸方面での持場放棄を織田信長に謝罪。
 天正5年9月23日、柴田勝家を大将とする織田勢北陸方面軍が上杉謙信の軍に追撃され、手取川で惨敗。//柴田勝家率いる織田軍は加賀に進攻したものの、加賀一向一揆は上杉謙信と結んでいたため、情報が全くなかった。また、能登七尾城が既に落城していることを知り、夜陰に紛れて退却をしていたとの説もある。
 天正5年9月26日、上杉謙信が、攻め落とした能登七尾城の本丸に入る。合わせて、鯵坂長実や遊佐続光らに七尾城の修築と守備を命じ、春日山城に帰る。
 天正5年9月27日、織田信長、美作の江見為久が山中鹿之助を頼って織田方に一味することを認める。
 天正5年9月27日、明智光秀、同日付けで近江来迎寺に宛てて、78石9斗2合を寄進。
 天正5年、羽柴秀吉、中国地方征伐の大将に任じられる。(天正4年は播磨経略の申し次に任命されただけ?)
 天正5年(1577)初冬、織田信長が羽柴秀吉に中国攻めを命じ、羽柴秀吉が中国攻めの総大将となる。
 天正5年10月、織田軍が信貴山城を包囲。織田信長は松永久英に対して、名器・平蜘蛛茶釜を差し出せば助命すると命ずるが、久秀は拒絶。
 天正5年10月1日、明智光秀/細川藤孝/筒井順慶らの織田勢が謀叛した松永久秀の与党の籠もる片岡城を攻めたちまちのうちに落城。
 天正5年10月2日、織田信長、同日付けで松永久秀攻めの細川藤孝に感状を与える。
 天正5年10月3日、明智光秀・細川藤孝・筒井順慶ら、松永久秀のこもる信貴山城攻略を進めていた織田信忠に合流。
 天正5年10月3日、織田信忠率いる織田勢(佐久間/羽柴/明智など)が大和信貴山城(松永久秀が織田信長に叛旗を翻し籠城中)を攻囲。
 天正5年10月10日、織田信忠率いる織田勢が大和信貴山城の四方から攻め込み、松永久秀は覚悟を決め、天守に火をかけて久秀所有の名物平蜘蛛の釜とともに自爆・自害。久秀、享年68歳と言われる。息子久通は久秀とともに死んだとも、大阪を目指して落ちる途中で雑兵に襲われたとも言われる。信貴山城落城。
 天正5年10月12日、織田信忠が松永久秀討伐および大和信貴山城攻めを終えて入洛。
 天正5年10月17日、織田信忠が松永久秀討伐を終え安土城に帰還。
 天正5年、羽柴秀吉、中国地方征伐の大将に任じられる。(天正4年は播磨経略の申し次に任命されただけ?)//織田信長は上杉謙信の上洛の可能性を見極めたあと、羽柴秀吉に中国征伐を命じたのではないだろうか?
 天正5年(1577)初冬、織田信長が羽柴秀吉に中国攻めを命じ、羽柴秀吉が中国攻めの総大将となる。
 天正5年10月、織田信長が羽柴秀吉を播磨に派遣することを決め、毛利氏との合戦の総大将とする方針を固める。
 天正5年10月19日、羽柴秀吉が、織田信長の命により、播磨経略のため、大軍を率いて近江長浜城を出陣。//竹中半兵衛も軍師として従軍。
 天正5年10月23日、羽柴秀吉が京都を経て、播磨に到着し、黒田官兵衛の居城姫路城に迎えられる。//その後黒田官兵衛の居城姫路城を修築したうえで入城し、播磨および但馬の攻略を進める。
 天正5年10月23日、羽柴秀吉が中国攻略のため京都を進発。その後、播州に入り、黒田孝高から姫路城を譲られる。→当時黒田孝高は御着城(兵庫県姫路市)の小寺政職の家老職。
 天正5年10月、羽柴秀吉が播磨国の宇喜多直家所領の諸城を攻略
 天正5年10月27日、羽柴秀吉、播磨国の宇喜多直家所領の諸城を攻略
 天正5年10月27日、明智光秀、丹波籾井(兵庫県多紀郡)を攻める。
 天正5年10月27日頃、明智光秀・細川藤孝、丹波八上城を攻める。(「細川家記」による。疑わしい?)
 天正5年10月頃、羽柴秀吉、阿閉城、上月城(城主赤松政範)を落とし、上月城に尼子勝久、山中鹿之助幸盛を入れる。(同年12月にも同様の記述あり)
 天正5年10月頃、播磨国上月城主赤松政範が自害。
 天正5年10月29日、明智光秀、丹波に進攻し、丹波籾井城(兵庫県篠山市)を攻撃。
 天正5年11月1日頃、羽柴秀吉、黒田孝高の助力(事前工作)により、播州をほぼ平定。その旨、織田信長に注進。→2年前の天正3年1月頃、播磨の有力国人衆は上洛して織田信長に拝謁済みであり、当然の流れだった←③
 天正5年11月16日、織田信長が従二位に叙せられる。
 天正5年11月21日、織田信長が右大臣に任官。
 天正5年11月下旬、羽柴秀吉、但馬に進出(目標は毛利方の竹田城(城主太田垣氏))してこれを平定し、再度播磨に帰陣し、佐用郡の攻略を始める。佐用郡は播州と美作・備前の国境付近にあり、宇喜多家ひいては毛利家の影響が強かった。この時の上月城主は赤松政範。近隣の福原城の城主は福原助就で、これらは織田信長に心服せず、毛利方に就いていた。
 天正5年、羽柴秀吉が但馬に進攻、岩州城(朝来郡朝来町)を落とした後、太田垣輝延の竹田城を落とす。羽柴秀長を竹田城に入れる→但馬守護は山名氏だが、山名氏は織田/毛利のどちらに就くか去就を決めかねた状態。但馬自体山名氏の支配は1部に留まり、山名四天王と言われた垣屋/太田垣/八木/田結庄が国内に割拠していた←→山中鹿之助ら尼子勢も従軍?←
 天正5年、羽柴秀吉、播磨徳佐(徳久?)城を攻め落とす。
 天正5年、羽柴秀吉、播磨衆から人質を取り、まもなく但馬に出陣し、山口・岩州を攻略し、竹田を攻めて、大田垣土佐守を追い、これを修築し、弟羽柴秀長に守らせる。//織田信長が中国一円の拝領の朱印状を作成(祐筆の楠長諳が作成)。
 天正5年11月27日(11月28日~12月1日との説もある)、黒田孝高/竹中半兵衛により宇喜多方の福原城(城主福原助就)が落城。//羽柴秀吉は福原城の城兵250を切り捨てる。
 天正5年11月28日、羽柴秀吉、自ら播磨上月城を攻囲。羽柴秀吉6千2百(最初本陣は仁位山、翌天正6年3月に播磨国の名刹書写山円教寺に移陣)、黒田孝高1千5百、別所重棟1千5百、尼子勢8百。これを聞いた宇喜多直家が弟に命じて援軍3百(一説には3千)を派遣し、夜陰に乗じて包囲網を突破し、上月城に入城。その後、羽柴秀吉勢は大手の堀を埋めるなど徐々に城に肉迫>山中鹿之助/立原久綱ら尼子勢は保木谷から太平山の北部に移動し、城内を俯瞰する場所を占拠。黒田孝高の一隊は搦手の堀を埋めて進撃し、城主の弟赤松次郎政直を討ち取る。攻城7日後、上月城の城兵が城主(赤松政範)の首を持参して降伏するも、羽柴秀吉はこれを許さず、城内の女子供も含め播磨/備前/美作の国境まで連行して全員を磔③。
 天正5年11月、宇喜多直家、赤松政範の拠る上月城を救援するため、宇喜多直家の弟掃部守広継(忠家?)を大将とする3千(一説には3百)の軍勢が旭街道を北上。
 天正5年11月29日夜半、宇喜多勢の上月城来援を聞いた羽柴秀吉は谷大膳を先陣に浅野/堀尾/山中鹿之助ら3千余を授けて、秋里口で迎撃。翌31日昼過ぎ、激突。
 天正5年、羽柴秀吉が播磨丸山城を攻め落とす。
 天正5年(1577)12月2日未明、播磨上月城の城内から全兵力が突出して血戦。敵味方の死傷者合わせて千に及ぶ。
 天正5年(1577)12月、羽柴秀吉、毛利方の赤松蔵人政範が守る播磨上月城を攻め落とす(下秋里の戦)④>赤松政範は自害し、播磨の名族赤松氏が滅亡>羽柴秀吉は尼子勝久/山中鹿之助らに上月城の城番を命じる(同年10月にも同様の記述)
 天正5年12月3日、羽柴秀吉自らの攻城により、7日間の激戦の末、同日上月城が落城。//秀吉が近江の下村玄番助に宛てた書状(12月5日付)には、宇喜多勢の首級619をとり、その他雑兵を切り捨て、水の手を押さえたため、城方は降伏を申し出たがこれを許さず、返鹿垣を3重に結い回し、脱出不能にした上で突入、城衆をことごとく首をはね、見せしめのため、女子供2百余人を備前・美作・播磨の境に子供は串刺しに、女は磔にして並べた。このあたりは「佐用軍記」にある。この書状の中に「1、右7条城、備・作・播の境目において然るべく所に候の間、山中鹿之助今度我等あい抱え候条、足弱をは三木城におかせ、7条城に残し置き候事」とある。この措置をして秀吉は播州龍野に引き上げている>「陰徳太平記」によれば、それまで尼子1党は明智光秀に属していたが、この近辺のある時期に羽柴秀吉の与力になったと伝えている。真偽は不明。←
 天正5年12月3日、上月城落城。その後、上月城の守備を命じられた山中鹿之助は尼子勝久を始めとする尼子氏の残党を糾合しようと京都に上り、城を留守にした間に、上月城は再び宇喜多氏の手中に落ちる。ところが、宇喜多氏の城将真壁彦九郎は山中鹿之助の播磨国入りを聞き、城を捨てて逃亡。激怒した宇喜多直家は彦九郎の弟次郎4郎治時に3千の兵を与えて再度上月城奪回を命じる。これを察知した精兵8百で八塔寺辺りに夜営治時軍に夜襲。風上にまわった尼子軍が火を放ち、混乱に陥ったところに切り込んだ。不意を襲われた備前軍はかなわず、大将治時をはじめ70余人が討ち取られて岡山に逃げ帰った。
 天正5年12月3日、尼子勝久ら、羽柴秀吉の中国攻めに参加し、その先陣として播磨上月城を奪回して、主従2千3百騎で入城。この入城に立原久綱は強く反対。尼子氏は天文6~9年にかけて西播磨を制圧していたが、この際、上月城についても支配下に置いていたと思われる。西播磨は尼子氏全盛期の版図の東限にあたっていた。
 天正5年(1577)12月18日、上杉謙信が春日山城に帰還。
 天正5年12月、宇喜多直家、上月城奪回。真壁九郎を在番とする。(陰徳太平記、備前軍記)
 天正5年12月23日、上杉謙信が上洛に向けて大動員令「上杉家家中名字尽手本」を作成して大動員令を発し、する。翌年3月15日に関東出陣の日と定める。遠征を開始する予定だったらしい。
 天正5年年末、羽柴秀吉、中国攻略の状況報告のため安土城へ参上。織田信長から名物乙御前の茶釜を下賜される。




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