虎の肝(八)/歴史小説

二人が虎に与えた脾腹の傷は致命傷とも言える深手ではあったが、虎の動きを完全に封じるまでには至っていなかった。虎は断末魔の叫びをあげながら、助十郎に襲いかかった。助十郎と助七郎はすでに虎の体内に突き刺さった槍を放し、抜刀して止めの体勢を整えていた。助十郎は彼に覆い被さるように頭上から落下してくる巨虎の眉間めがけて、必殺の突きを繰り出した。
助十郎は掌で太刀が何か硬質な物を砕いた感触と生命を絶ったときの確かな手応えを感じていた。落下してくる巨岩を受け止めたようなその衝撃は、助十郎の腕を伝播し、脊椎を伝わって、彼の脳髄に敵を砕くという純粋にして無垢な目的を達成したときの眩きをもたらした。巨虎の身体は急速に力を失い、重力に引きずられるように乾いた地面に落ちた。灰神楽のような土埃が、巨虎の周囲に沸き立った。落下の衝撃は、力無く開いた巨虎の口から、内蔵に溢れた真紅の血液を噴出させ、地面を鮮やかな紅色に染め上げた。
放心と恍惚が綯い混ざった複雑な表情を浮かべる助十郎に助七郎が体当たりするほどの勢いで駆け寄り、興奮した表情と叫ぶような口調で語りかけた。
「助十郎、おみごと。」
茫然と立ちつくす助十郎の意識を呼び戻すために、助七郎は助十郎の肩を二回ほど強く叩いた。
助十郎は叩かれた側に顔を向けた。そして、巨虎に突き刺さったままの太刀から自らの心へと流れ込む甘い微弱な痺れと陶酔から覚醒し、破顔した。
覚醒とともに、助十郎は巨虎との最後の物理的な結合であり、軽微な酩酊に似た快感を伝播する媒体でもある太刀を巨虎の身体から軽々と抜き取った。刀身は冬季に獣が纏う濃厚な脂質の薄い膜に覆われ、寒々とした冬空の中天から降り注ぐ陽光を、眩さを感じさせない程度に鈍く跳ね返した。助十郎がその霞んだ輝きを放つ太刀で宙を切り、刀身に残る獣の油脂を払い除けると、微細な油滴が冷涼な空気の中に霧散した。その白い煙霧の中、助十郎は手に持った太刀を流れるような動作で鞘に収めた。鍔が乾いた音を立てて、鞘に当る。その高い金属音が、この強敵との闘争に、隼人達が勝利したことに対する、天地と、そして、神仏への捷報となった。
「チェストー。」
助十郎は硬く握った拳を突き上げて叫んだ。その拍子に合わせて、助十郎の周りに集まった隼人達も一片の屈託も含まない清浄な声音で勝ち鬨を上げた。義弘の命を忠実に果たすことができたという達成感と薩摩隼人という自らが属する誇り高き集団の名誉を守りきったという充足感が彼等の心に満ち溢れ、人気のない異国の冬の原野に隼人達の歓喜の声が果てることなく木霊した。

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