虎の肝(一四:完)/歴史小説

再び、意味のない書状が日本と大陸とを隔てる大海を渡り、韓の国に達した。
虎之儀被仰遣候之処、即二、肉骨腸、色々取揃、入念到来別而悦思召候、此上不入候間、狩以下一切無用候、猶石田治部少輔可申候也
(文禄四年)卯月廿八日
羽柴薩摩侍従(島津義弘)とのへ
秀吉朱印
義弘はその書状を読み、自分の献上した虎の肉腸にまつわる話の顛末を聞き、憤激した。
ーこの救いようのない一人の老人と取るに足らぬ佞人のために、薩摩隼人が二人、そして、罪なき虎の母子が命を失ったのか、・・・。しかも、『此上はいらず候間、狩以下一切無用』とは、まるでこの狩りが不必要であったような物言いではないか、・・・。
義弘は己が巵従し続けなければならない老耄の権力者とそれに隷下する佞臣どもに対するぶつけどころのない憤怒に拳を震わせた。
ー自分は四つの命の上で胡座をかくように生き延び、追従を続けながら、長らえるのか。
義弘は悩んだ。悩み始めると、それは奈落の底まで落ちていくような自問自答の繰り返しだった。突き詰めて行けば、この難問に対する解が見えそうな気がしたが、その解を得たときに義弘自身の、
ー寝覚めが悪くなる。
というほどの漠然とした不安が心中を過ぎった。義弘はそんな不安から逃避したいがために、自問自答という単調な作業を、自らを正当化するための理屈を求めるものへと、無意識のうちに、転じていった。
ーこうしなければ、島津家と薩摩・大隅の民の安寧は得られぬ。儂は自らに臣従する兵子や民を守るために秀吉に従わざるを得ないのだ。
義弘はそういう形で二人に犠牲を強いたことを正当化しようとした。しかし、それは自分のみが枕を高くし、安んじて眠るための詭弁に過ぎなかった。彼等の犠牲が、
ー蒙昧な古代信仰における生け贄と変わらぬ。
という事に気付いていながら、義弘はそういう感懐を心の深層に沈淪させてしまうことによって、自らの安らぎのみを得ようとしていた。
権力という一個の山の頂に立つ者は、いつでも、その山を形作る土粒子達を守るべく行動したと自分だけで思い込みながら、自らの行為を正当化し、見かけだけの心の安寧を追い求める。その心理の中には自らとそれを支えている山塊が大きいという自負と、自分が山頂に居なければこの山塊が崩壊するという独善的な自己肥大が作用している。
だが、実は、この種の行動の発端は山頂である自分だけの保身を目的としたものでしかない。しかし、山頂に立つものは意図的にそれを意識しようとしない。山頂に立つ人間達の尺度においては、自分を含めた山塊は大なる物であり、時を経るに連れ、それを守ることのできる者は自分しかいないという過剰な自意識が生まれ、その自意識が大を守るためには小なる物を犠牲にしてしまうという残虐な行為をも正義という言葉に変態させる。
それが権力という錐形を為す階層構造の魔性であり、善良な人間であろうとも、その魔性を手にした刹那、人格を豹変させることがある。そして、階層構造の形状に差異や大小はあれども、その山頂に立つ人間は己に垂下する人々を守るという大義名分のもとで、自分だけを保身するためのどんなに愚かで、醜い行為をも正当化してしまうことができる。さらに、錐形の頂点に立つ者が愚物である場合、その権力に従属する人々に間接的そして直接的な大害をもたらすことになる。それは優れる者が、その権力に慣れ、またはその聡明が鈍磨したときも同様であろう。

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