虎の肝(十三)/歴史小説

老猿という表現が限りなく符号する表情をした秀吉の唇に虎の肝の欠片が近付く。その老猿は少し唇を開きつつ、未知の食物への恐怖を露わにしながら、肉片の端を噛み取り、二、三度咀嚼した。秀吉が肉片を玩味するこのときこそ、漢方医の全ての詐偽が真実へと転じる瞬間のはずだった。しかし、秀吉の顔は黒雲(こくうん)に覆われた。
「まずい。」
老いた秀吉は味覚から伝わる不快な感情を抑えることができぬまま、憤然たる面持ちで言った。そして、唾液にまみれた肉片を畳の上に吐き出し、怒声を上げた。
「これが食い物か。」
殿中全体が震えるような大声だった。秀吉は、織田家の郎党であった昔より大声を家中に知られた男だったが、老いた今は肉体の損耗を恐れるかのように小声になっていた。しかし、精神の均衡が破れたときには、精力の吝嗇という配慮を忘れ、戦場にあるかのような恐ろしい大声を発することができた。
秀吉は自らの怒声により、さらに怒りを募らせ、激情の赴くままに茶坊主の捧げ持つ皿を払い落とし、目を剥いて漢方医を睨め付けた。
「このようなまずいものが妙薬であろうはずがない。そなた、この関白を騙したな。」
怒罵しながら、秀吉は右手の箸を漢方医に投げつける。漢方医の身体は再び冷たい脂汗に包まれた。
「めっそうもございませぬ。」
漢方医は、畳に額を擦り付けるようにし、秀吉の独善の為せる理不尽で巨大な怒りを前にして、全身で恐懼の感情を表現しながら、あらん限りの声で応答した。しかし、どんな大声を出したところで、憤怒の鎧を纏う秀吉の感情の奥底に秘められた極めて小さな寛恕の場所には届くことはなかった。
呆けた老人の感情に理非はない。秀吉は我が儘な幼児のように怒りという感情を爆発させ、その爆発力を用いてさらに誘爆を起こし続けるだけだった。そして、その怒りの暴走はもはや秀吉以外のだれにも制止することはできなかった。そういう性質の怒りを静めるためには、怒りの発する秀吉本人が、その原因であると思いこんでいる何らかの物象に対して、相応の懲罰を与えるしかない。
「牢に押し込めよ。」
秀吉は、扇の先で怒りの根源である漢方医を指しながら命じた。
居合わせた誰もが秀吉に非を感じていた。しかし、秀吉の発言はそれを取り囲む人間達にとっては、理非についてはどうであれ、無視することの許されぬ、寸分違うことなく忠実に実行すべき命令だった。
「お許しを…。」
漢方医は力なく弁明を 続けたが、同朋衆二人に脇を抱えられ、引きずられるようにして、部屋を追われた。
秀吉は怒りの原因を排除することで、僅かに精神の平衡を取り戻し、少しだけ和らいだ口調で、眼前の虎の肉腸を棄てること、そして、向後虎狩りは不要たることを命じた。

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