虎の肝(十二)/歴史小説

「調理の塩梅を存じておるか。」
秀吉は再び漢方医に尋ねた。言葉は問いかけの形を取っていたが、それは既に、
ーお前は知っているはずであり、知っていなければならない。
という独善的な断定を言外に含んでいた。漢方医にはその問い掛けを拒絶する権利はない。秀吉に睨まれた今の漢方医にできることは、一度ついた偽りを、真心を込めた大量の虚構で厚く塗り固めることで、その偽りが限りなく純度の高い真実へと収斂することを信じることだけだった。
「存じ上げ候。」
漢方医は詐佯を悟られまいと、全身の力を喉に込めて、返答した。往時の秀吉ならば、この漢方医の茶番じみた虚言を、最悪でも、この時点までには看破できていたに違いない。しかし、秀吉は既に老い、往時の超卓なる人物眼は鈍化していた。秀吉は漢方医の返答に満足したように一度頷く仕草をして言った。
「やってみせい。」
秀吉は欲望という物の怪に取り憑かれて感情の平衡を失ったためか、その言葉に異常な迫力を加わっていた。その言葉に迫られるようにして同朋衆が火鉢を抱えて部屋に入り、当然の如く、漢方医の膝の前に据えた。それに続いて、虎の肝、そして肉が奉られるように部屋に運ばれ、神仏に供物を献上するような恭しさで秀吉に披露された後、これもまた当然、火鉢の横に置かれた。塩漬けにされたとはいえ、野獣の臓物は近付くものに不快感を与える生臭さを発し、漢方医の嗅覚を刺激した。その、異臭を悟られぬよう漢方医は普段通りの口調で告げた。
「失礼つかまつります。」
漢方医は赤々と熾った木炭の火を見つめ、いかにも慣れた手つきで薄切りにされた虎の肝を箸にとる。そして、箸を炭に向け、その先端を穏やかな調子で揺らすようにして、肝を炙り始めた。同室の人々の瞳は箸先の穏やかな揺動に釘付けられ、皆、口を閉じた。
部屋は静寂に包まれた。
しばらくして、肝から油滴がポトリと炭の上に落ち、咳(しわぶ)き一つ聞こえぬ部屋に油が高熱に弾ける小さな音が響いた。その瞬間、漢方医は手を素早く動かし、焼かれたばかりの黒い肝を傍らの蒔絵の皿に載せた。
漢方医の心理は、既に臓腑を締め上げるような緊張と、自らの発する珠玉の偽りによる自己暗示、さらにはゆっくりと揺れる箸先を見つめ続けたことによる催眠作用により、自らの行為の真偽さえも判別できぬほどの幽玄の中に埋没していた。そして、虚実を忘れた彼の自信に満ちた動作は、この瞬間こそがこの妙薬の魔力を最大限に発揮させうる唯一の瞬間であるように、秀吉とこの場に居合わせた人々を錯覚させた。
漢方医の動きに励起されるようにして一人の茶坊主が漢方医に近付き、虎の肝が載った皿を両手で掬い、満面の笑みを浮かべてそれを見つめる秀吉に恭餽した。
秀吉はその魔性の肉片を箸先で弄びながら、徐々に肉片と顔との距離を詰めた。秀吉は近付くに連れて増す異様な臭気に徐々に眉を顰め、妙に鼻にかかった声で言った。
「これが長寿の妙薬か、…。」
嗅覚を刺激する臭気から逃れるため、秀吉は鼻腔の奥を閉じていた。
「良薬は口に苦しと申します。妙薬ともなるとなかなか、…。」
「ふむ。」
漢方医のある意味理屈の通った論理にも、秀吉は納得しかねていたが、それでも秀吉の表情は幾分和らいだ。その表情は漢方医に自分の発した珠玉の虚言が秀吉の中で完全なる真理へと昇華しつつあることを確信させた。
「うむ。」
秀吉は自らの動作に弾みをつけるように再び鼻にかかった声で呟き、老いて丸みを帯びた背中をさらに湾曲させ、腕を伸ばしてその肉片を箸で摘んだ。ゆっくりと肘を曲げると肉片の臭気がさらに増大する。秀吉は思わず空いた左手で鼻を摘み、目をきつく閉じた。

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