虎の肝(五)/歴史小説

このとき、島津勢は朝鮮半島の南端、唐島(巨済島)に陣を据えていた。朝鮮半島は既に、厳冬の峠に差し掛かり、凍え、身体の末端を失うかと思えるほどに寒冷だった。義弘五九歳、当時としては老境であり、北の異国の凛然たる寒気は老骨の節々を音を立てて軋ませるほどに寒い。それは薩摩という南国で育った隼人たちにとっても同様だった。
そんな極寒の中、虎狩隊一行は、その厳寒を忘れるほどの高ぶった興奮を保ったまま、唐島の僻陬、人煙などは皆無と言ってもよい島の北部、原野と呼ぶに相応しい野生を残す昌原の地へと向かった。その辺りは、土地の者ならば懼れて近づくことも避けるほどに古来より野生の朝鮮虎の生息地として知られており、彼等にとっては恰好の狩り場といえた。
権右衛門をはじめとする虎狩隊は雪の荒野を彷徨い、目指す敵を探し求めた。冬の異国の枯れ野を、人の踏み入れた痕さえもない山中に分け入り、虎の水場になりそうな所など、足が棒になるほど野獣の影を探し続けた。しかし、こちらが探すほどに、虎は巧みにその姿はおろか、生息の痕跡さえも残さなかった。
-追えば逃げる。
虎狩りを始めて三日目、獲物の姿を捕捉することさえもできぬ虎狩隊に焦燥の色が見え始めた。一行は、主君の命を忠実に行うという使命感のようなものに苛まれながら、心血を絞るように、そして、五感を研ぎ澄まして虎の姿を求めた。しかし、それでも虎は見つからなかった。皆、
-虎を獲るまでは戻ることはできぬ。
という悲壮な決意を胸に秘め、
-万一、虎を見つけることができねば、この原野で腹を切る。
という覚悟が、同一の思想により彫琢された彼等の心中に、暗黙の内に芽生え始めていた。そんな窮地に立ち始めた時、権右衛門が一計を案じた。
-こちらは、待てばよい。
考えれば、ただそれだけのことだった。冬枯れの一本の木の幹に囮の子牛を繋いだ。一同は虎から気取られぬよう、子牛が犬の大きさに見えるほどの距離を置き、灌木に身を隠して待った。
子牛の臭いに釣られるようにして容易に敵は訪れた。全身黄色の下地に黒の鋭い線を幾本も掃いた虎の姿を眼にしただけで、一同はこの小さな師旅の目的を果たしたかのような安堵感に無言まま欣喜した。しかし、それと同時に、
-でかい。
と、子牛と同じほどもあろうかというその巨大さに誰もが瞠目した。
皆が驚愕と茫然に包まれる中、権右衛門が組頭としての自覚を取り戻し、怒号した。
「かかれ。」
その雄叫びと同時に全員が覚醒した。放心から目覚めた瞬間、彼等は一つの群と化し、乾いた地面を渾身の力で蹴り、駆け出していた。昌原の荒野は戦機の充満する戦場化した。

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