虎の肝(十一)/歴史小説

秀吉の欲する虎の肉腸はその書状とともに日本海を越え、秀吉の待つ大坂城へと届けられた。
肉腸、そして、虎の肝は塩の詰まった桶のまま、秀吉の面前に据えられた。秀吉を始め近従達はそれを、
ー如何にすべきか。
と途方に暮れた。そんな当惑を嘲笑するかのように黄金色の虎皮の毛氈二枚が、異様な輝きを部屋中に放っていた。
「彼の医者を呼べ。」
虎皮には一瞥さえもくれず、秀吉は名前さえも記憶していない身分の低い漢方医を呼ぶよう命じた。
顔面を蒼白にした件(くだん)の漢方医が、同朋衆に引きずられるような足取りで、秀吉の面前に連れ出された。
漢方医はこの日が来ることを予期していた。そして、虎が献じられたときの対処に日夜思案を巡らし、彼なりにその時の覚悟を決めていた。しかし、口先だけの輩の一典型のように、いざ、その時が来ると、
ーいっそ、逃げ出してしまいたい。
という衝動が漢方医の心中を充たしていた。彼は豪雨の中を走り抜けて来たかのような冷や汗を拭うことも忘れ、主君秀吉の前に平蜘蛛のようにひれ伏した。
秀吉は鷹揚に桶を扇で指し、漢方医に尋ねた。
「そなたが不老不死の妙薬と申しておった虎の肝が届いたが、如何に食せば良いのであろうな。」
秀吉の語調には叶うはずのない欲望を満たしてくれるかもしれぬ邪法の物具を眼前にして、それを使う術を知らない、例えば獲物を目の前にして弓矢を持たぬ猟師の心境に似た焦燥感が高い濃度で含まれていた。
その少し激した語調に漢方医は一瞬怯み、床に伏した身体を一段と小さく縮めた。
「その方、まさか知らぬ訳ではあるまいな。」
秀吉の表情にほんの少しだけ険が加わり、部屋に緊張した空気が流れた。僅かに鋭い棘を含んだ秀吉の言葉は、これ以上ないまでに縮めた漢方医の身体を微かに震わせた。そして、漢方医は、蚊の鳴くような声で、咄嗟に思いついた偽りを口にした。
「生で食するが最善かと聞き及びますが、日も経ております故、少々御炙りになられて、召し上がられるが上策かと存じます。」
呟くように言いながら、漢方医は秀吉に悟られぬ程度に目線だけを少し上げ、恐る恐る秀吉の表情の変化を伺った。
不老長寿という魔力を秘めた偽りの妙薬の処方は、秀吉の曇りがかかった表情を一変させた。その欣快の顔色に、漢方医は再び権力という階層の一段上に昇る梯子に手を掛けたことを確信した。喜び勇む秀吉は、急くようにして同朋衆の一人へ、この部屋に火鉢を運び、桶を台所に一旦下げ、食する仕度を整えるよう命じた。

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