虎の肝(一)/歴史小説

虎の肝
北白川 司空

一人の権力者が発した一通の書状から、物語が始まる。
太閤様為御養生、可参御用候虎を御取候て、鹽能仕置可有御上之由、御意候、皮者此方不入候間、其仁へ可被遣旨被仰出候、頭肉腸何も一疋之分御沙汰候て可被参候、恐々謹言
(文禄三年)十二月廿五日
権力とは、その頂点に存在するたった一人の人間と、それに迎合し、追従する無数の人々によって成立する。どちらの一つが欠如しても、物質としては無機的な、それでいて人間が集団になったときにだけ有機的な意味を持つ、
-権力。
すなわち、
-権(かり)なる力
は、形作られることはない。
権力の風景は、幾重にも連なる山脈に例えることができるかもしれない。山脈は数々の山頂を有する山々の集合体である。山々はそれぞれに高低差をもち、固有の姿を持って地形を彩る。独自の形を持って偉容を湛え、幾重にも折り重なる山々は、身を寄せ合うことにより始めて一つの山脈を作り上げる。山脈の最高峰が最も強大な権力を持つ者とすれば、高低の差はあれ、最高峰に従属する数多の山々はその権力に巵従する従者に過ぎない。そして、最高峰を含む全ての山の頂は、重力に逆らわない程度の勾配を保つ土岩によって、その足下を支えられている。どの山の頂も、それを支持する大量の土塊なくしては、存在することさえも不可能であり、また、土塊あるところに必ず有限の高さを持つ頂が生まれる。そして、土塊達は自分たちが保持している頂が高ければ高いほど、その量を級数的に増大する。そんな土塊達に支えられた幾多の山頂が、集団を成し、地理的な意味での山脈を形成する。
天工の山脈はそのように形容できるが、人工の権力は常に厄介な地殻運動に悩まされ続ける。山岳を成す土塊は、自らを礎として成る山塊に強い誇りを感じながら、時に集団として、時には個人として、常時、今在る高度よりも上を目指し、他の土塊を押し退けて山頂に近づこうと、他の多数の土塊を唆し、それを貶める。そういう欲望が過剰に膨張したとき、人はあわよくば自らが山頂たらんとし、山頂を含んだ大崩壊を生ぜしめる。また、山頂に居て山脈の最高峰を羨望の眼差しで仰ぎ見る者たちも然りである。
冒頭の書状の発端は、そんな当時の日本という山脈の最高峰たる豊臣秀吉の山裾、海抜にすればほぼ海面に近い位置にある土塊の中の微少な土の粒子程度が発した個体としての欲望に起因する地殻運動ともいえない程度の僅かな振動だった。
今となっては名も分からぬ漢方医が自らの地位を高めんがために、老いた権力者関白豊臣秀吉に耳打ちした。
「虎の肉を食すれば、長命を謳歌し、その生の肝は、不老不死の妙薬とか。」
老いに蝕まれた秀吉に取り入るために、漢方医が発したその一言は天寿の限界を感じ始めた秀吉の琴線を激しく弾いた。
「誠か。」
縦皺が刻み込まれ、喉仏が異様に飛び出た、老いた猛禽を思わせる首の上の皺面だけをその漢方医の方に突き出して、秀吉はその耳朶の奥底を震わした甘い旋律を確かめるように尋ねた。充血した両眼を見開いた秀吉の視線は、漢方医を射貫くように鋭く、見つめ返す万物を果てしない欲望の渦の中に吸い込んでいくような強大な力を秘めているかのようだった。漢方医は、秀吉の滑りつくような視線を受け止めると同時に、自らが口にした言葉の重さに気付き、顔を伏せることでその粘性の高い視線から逃れようとした。
「誠か。」
秀吉は、口元に唾を溜めながら、激しい調子で繰り返した。
秀吉の粘り着くような唾液が空中に飛散し、漢方医の頬に付着する。秀吉の眼は狂人のように血走り、白濁した眼球は粘度の高い液体に覆われ、不気味な光を宿していた。
漢方医は、軽い諧謔と阿諛のつもりで発したその言葉が、乞食のような境遇から人臣の最高位まで駆け上った老人の見果てぬ夢と無尽の欲望をこれほどまでに刺激するとは考えていなかった。
己の思慮不足を後悔しながらも、漢方医は秀吉の貪婪な欲望から逃れることを諦めた。権力に垂下する佞臣と呼ばれる類の人間は、その権力に逆らうことはおろか、その権力者が、
-白。
と言えば、黒い物であろうとも、
-白でございます。
と追従しなければならないことを知っている。
「誠でございます。朝鮮の古からの伝承で、朝鮮の山中にはその仙薬を服して不老不死を得た仙人が住んでいるとか。」
彼は、心からの誠意をもって偽ることにより、愚物と化した権力者とそれに従属する醜い動物の群れの中で、今の自分の地位、言い換えれば、生存の権利のようなものを確保するとともに、権力者の意を迎えることで、穢れた欲望の渦巻く魑魅魍魎の城郭の一寸でも高い場所に昇ることができることを熟知していた。
彼の目の前で秀吉という老猿が歯を剥き出しにして、これ以上ないほどに卑陋な笑みを浮かべている。秀吉の顔は、漢方医でさえも自らがこの猿顔の老人に使役されていることに嫌悪を感じるほど、野卑で愚昧だった。漢方医は思わずその卑しげな秀吉の顔から目を背けそうになったが、頸椎の筋がその感情に反応して動こうとすることだけは懸命に抑えた。
「虎の肝か、…。」
秀吉は薄い唇の端に下品な筋肉の緩みを残したまま呟いた。天賦の才を持って、覇権を握った往時の明晰な頭脳は衰えていたものの、老耄した秀吉の体には脳幹で考える必要もないほどに、権力を駆使し、家臣達を頤使する方法が染み付いていた。秀吉の頭には、後世、文禄、慶長の役と呼ばれる外征のために朝鮮に渡海している自らの隷属者達への権力の行使が閃いていた。
「朝鮮の諸将に虎を狩ることを命じるとしよう。」
秀吉は独り言とも思えぬ大声を発し、既に不老を得たような悦楽の感情の赴くまま、糟糠の家臣浅野長政を呼び、自らの言葉を具現化すべく、冒頭の書状を認めることを命じた。

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