虎の肝(六)/歴史小説

隼人達は、眼前に現れたその敵を飛び道具で仕留めようとは、毛頭考えていなかった。己の武術に対する確固たる自信に加え、薩摩隼人としての誇りが、例え、畜獣であろうとも飛び道具を持たぬ相手に対して、弓鉄砲で撃殺するような卑劣な行為を許さなかった。相手がどんなに獰猛であろうとも、自分と仲間達の尊厳を汚す行為を峻拒するという信念が、自らの存在意義の根源をなす薩摩隼人魂ともいえる概念の中に植え付けられていた。
先鋒は安田次郎兵衛、得意の長槍を両手で扱きながら、槍と同様、真一文字に虎に向かって疾駆した。
虎は異様な気配を感じ、子牛に襲いかかろうとしていた顔を次郎兵衛の方に向けた。次郎兵衛の姿に殺気を感じた虎は、次郎兵衛の突進を真正面から受け止めるために、四肢をゆっくりと動かし、身体ごと向きを転じた。さらに、自分を殺すために向かってくる敵への反撃のため、四肢を撓め、顔を地面に擦り付けんばかりに上体を低めた。虎の一連の動作は緩慢ではあるが、緩慢であるが故に見る者に勝利への揺るぎない自信を感じさせた。
次郎兵衛は相手が戦いの体勢に入ったことを悟りながら、さらに突進に速度を加えた。次郎兵衛の加速に合わせて、後ろに続く兵達も虎という目標に向かって、一つの塊と化して疾走した。
次郎兵衛は躊躇することなく、虎との間合いを詰め続ける。槍の間合いは長いとはいえ、やはり虎の目の輝きが明瞭に見える距離、そして、虎の息使いが聞こえる所まで近付かなければ、必殺の一撃を加えることはできない。猛獣を確実に仕留めるためには、一撃で倒すしかないこと、そして、もし、最初の一撃を仕損ずれば、野獣はあらん限りの死力を尽くし、自分と仲間達をその鋭い爪牙にかけるであろうことを、次郎兵衛は頭ではなく、幾多の戦場での経験により感得していた。
次郎兵衛は顔を俯き加減にし、眉庇(まびざし)の向こうに見える不動の虎を睨みながら、急速に間合いを詰める。
-あと三歩。
次郎兵衛が放胆な踏み込みを続ければ、虎は彼の必殺の刺突の間合いに入るはずだった。
次郎兵衛が間合いを計ったその刹那、虎は無拍子で四肢に蓄えていた力の全てを解放し、次郎兵衛に向かって、鍛鉄のバネのように跳躍した。虎は鋭い直線を描いて、その飛翔の頂点に達し、美しい黄金色の放物線を描きながら、次郎兵衛の脳天目掛けて、落下し始める。虎は落下しながら、真っ赤な口を開き、彼の最大の武器である白い牙を剥き出す。その鋭利な牙をもってすれば、次郎兵衛の頭蓋は容易に砕け散るに違いない。
虎の口中の真紅が次郎兵衛の視界一杯に広り、一瞬、次郎兵衛は無限の穴の中に吸い込まれていくような幻覚に襲われた。同時に彼の身体を死生の狭間に立つ瞬間の、痺れるような陶酔が包みこむ。その陶酔に溺れながらも、次郎兵衛の身体は無意識に動く。彼は幼少の頃から繰り返し砥礪(しれい)した突きの動作を行いながら、薩摩隼人独特の裂帛の気合いを発した。
「チェストー。」
人影のない荒野にその声が響き渡る。それと同時に次郎兵衛の繰り出した穂先は空中に浮かぶ虎の喉の奥深くに吸い込まれた。二つの生命力の激突は次郎兵衛の身体の均衡を奪った。その衝撃は槍の柄を伝い、彼の身体を伝播し、足下の地面へと流れ出したが、それでもその全ての力を消費することができず、次郎兵衛は思わず槍の石突きを背後の地面についた。激突の力積により石突きは地面を深く穿ち、その周囲に無数の微細なひび割れを形作った。

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