虎の肝(七)/歴史小説

虎は空中に浮かんだまま全身の力を失い、四肢を垂れた。同時に串刺しの虎は次郎兵衛を支えている槍の石突きを中心に黄金色の円弧を描きながら、地面に倒れた。柔らかな肉塊が地面に叩きつけられたときに発する低く鈍い音が荒野に響いた。
次郎兵衛が歓喜の声をあげようとした瞬間、彼の背後に黄金色の鋭い風が起こった。
風は隊列の最後尾を、獲物を仕留めた喜びと主君の命を果たすことのできた充足感に惑溺したような表情で次郎兵衛に向かって駆け寄る権右衛門の前を吹き抜けた。権右衛門は、その風が彼の前を掠めるのと同時に顔面に灼熱の鋼棒を押しつけられたような激痛を感じ、思わず両手で顔面を覆った。彼は曲げた両の肘から赤黒い液体を止めどなく滴り落としながら、前向きに倒れ伏した。
権右衛門の前を走っていた帖佐六七が権右衛門の異変に気付き、背後を振り返る。そこには血溜まりの中に俯伏する権右衛門だけがいた。突然の事態を飲み込めぬまま、六七は権右衛門に駆け寄ろうとした。権右衛門の方に駆け出したその刹那、六七は鮮血の絨毯が地面に広がり続けている理由を知った。
黄色い風は烈風となって六七と権右衛門の間を吹き抜けた後、地面に当たると、間髪入れず、弾性的に反発し、今度は一本の光芒に変化して、振り返った六七の方角に向けて、矢のような速度で地面を摺動するかのように駆け出した。神速の黄金の矢は地面を這うような低さを保ちながら、六七との距離を一気に縮めた。美しい黄金の軌跡に魅せられたように立ち竦む六七の体に、太く明瞭な光跡を描くその光の矢が吸い込まれた。一瞬の出来事に槍を構えることさえも失念していた六七は、巨大な岩塊に押し潰されたような衝撃と、右太股を万力で微塵に砕かれたような激痛で我に返った。六七はそのまま剛体棒のように仰向けに倒れた。
彼は自分の体が発する激しい疼痛の場所を自らの目で確かめた。そこには、針金のように硬く鋭い黄金色の体毛を逆立て、身を怒りに震わせる巨大な虎の姿があった。
次郎兵衛の仕留めた虎の裕に三回りもあろうかという巨虎だった。次郎兵衛に突き殺された虎の母虎かもしれない。六七の太股に食らいついた巨虎は、彼の体から溢れ出る鮮血で口際を染め、怒りに忘我したように頭を左右に振り乱す。虎の動きに合わせて六七の体も地面に引きずられたが、彼に抗うだけの余力はなく、彼の体は虎のされるがままに左右に大きく揺れた。
この原野に立つ全ての人間がその状況を茫然と眺めていた。俊敏な肉食獣にしては、あまりにも巨大すぎる虎の出現は、彼らの眼前で二人の命が奪われようとしているにもかかわらず、彼らをして木偶人形のように立ち竦みさせ続けていた。
その時、六七が激痛に耐えかね、小さな呻きを発した。人々はその小さな音の伝播により傀儡師を失った操り人形のような静止から脱した。
「チェストー。」
誰かが昌原の地を包み込む冷たい空気を切り裂くような気合いを放つと共に、勇猛な薩摩隼人の集団が巨虎に向かって、誰に命じられる訳でもなく、駆け始める。再び動き始めたその集団に先刻までの巨大な虎に対する恐怖の色は微塵も感じられない。ただ、目の前に現れた強敵を倒し、同胞の仇を討つという限りなく透明度の高い目的のみが、彼らの精神を支配していた。
悪夢の光芒が現れる前、殿から数えて、三、四番手を駆けていた無足衆福永助十郎と長野助七郎の二人が背後に現れた敵に対する先鋒の位置を駆ける。主君の命を果たし、さらには同朋の仇をとるという至高の目的は、彼等の心を野獣を倒すこと以外の想念に捕らわれない清廉なものに変化させていた。
「チェストー。」
助十郎が叫ぶと、助七郎も応じる。
「チェストー。」
邪念を含まない清澄な雄叫びと共に二人は図ったように左右に分かれ、虎の両側面を目掛けて疾駆した。
虎は怒りに我を忘れたまま、首を上下左右に振り続けている。虎が頭を振るたびに、六七の体は、巨虎の動きに合わせて、宙に浮き、地面を叩き、そして、引きずられた。虎は夢中に、そして、単調にそれだけを繰り返し、自らを殺傷しようとする助十郎と助七郎の気配に気付いていなかった。
二人は同じ調子で無心に地面を蹴った。巨虎との距離が縮まるに連れて両名の呼吸も漸く一致し始めた。
しかし、未だ巨虎は六七の体を弄ぶことに執心し、二人がその必殺の間合いの内に彼を捉えようとしていることにさえ気付かなかった。
「チェストー。」
二人は虎をその槍の間合いに捕らえるやいなや、同時に叫び声をあげた。そして、奔放な動作で巨虎の左右の脾腹目掛けて、二本の槍を力任せに突き入れた。
肥えた腹から、血袋を引き裂いたように夥しい鮮血が奔出した。虎は刺された箇所の発する痛みに我を取り戻し、その巨体に相応しい巨大な口を開き、根元が見えるほどに牙を剥き、鈍い咆吼を放った。

コメント

このブログの人気の投稿

【完結】ランニング、お食事 2022年5月~2022年12月

ランニング、グルメ、ドライブ 2023年4月〜

ランニング、グルメ、クライム 2023年7月〜