950(1921)_==大永6年==(最新版)

>_<あくまでも司空流の「こうかも」年表ですので、誤りがあってもご容赦ください>_<
>_<ご利用に際しては、解説・注意をご確認の上、各人で十分に史実をご確認ください>_<


 大永6年(1526)以前、尼子経久が伊予守に任じられる。
 大永6年(1526)3月、石見大森銀山の地下銀採掘が博多豪商神谷寿禎により始められる//この頃は大内義興の所領で、銀山北西の山吹城(銀山城)で大森銀山を守備していた。
 大永6年5月18日、後柏原天皇が崩御し、本願寺が「三部経」と香典千疋を献上。
 大永6年7月13日、細川高国が丹波の香西元盛を殺害。//香西元盛は細川尹賢の下で摂津中島の堀城を修築に加わっていたが、尹賢と元盛の人夫の喧嘩から両者の間がこじれたため、尹賢が細川高国に対して元盛を中傷したことがきっかけ。
 大永6年(1526)9月6日、出雲雲樹寺に八俵半を寄進し、政久の菩提を弔う。
 大永6年10月、波多野稙通と柳本賢治(カタハル)が、丹波八上などにおいて細川高国に反旗を翻す。//稙通と賢治は7月13日に細川高国に殺害された香西元盛の兄弟。//これを機に摂津や阿波でも反細川高国派が蜂起し、争乱となる。
 大永6年、細川尹賢が、細川高国に反旗を翻した丹波勢討伐に向かったが、敗れて京へ引き上げる。//この間に反細川高国派が摂津をほぼ占領。
 大永6年12月2日、山城で土一揆が起こり、幕府は徳政令を出してこれをなだめる。
 大永6年12月15日、阿波で挙兵した細川晴元の先鋒細川政賢が三好勝長・三好政長らを率いて、堺へ上陸。//摂津の衆は続々とこれに合流。丹波の柳本賢治は、京を伺う。

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