950(1536)_==天文5年==(最新版)

>_<あくまでも司空流の「こうかも」年表ですので、誤りがあっても司空は一切の責任はとりません。>_<
>_<ご利用に際しては、解説・注意をご確認の上、各人で十分に史実をご確認ください>_<

 天文5年(1536)、長尾虎千代(のちの上杉謙信)が、越後春日山城下の林泉寺に入り、天室光育禅師の教えを受け始める。//林泉寺は虎千代の祖父能景が明応6年(1497)に建立した長尾家の菩提寺。
 天文5年(1536)春、尼子経久が備後に兵を進め、甲山城を落とし、山内直通を隠居させ、直通の婿多賀山道広の嫡男婿法師(のち隆通)を直通の子豊通の娘と結婚させて家督を継がせる。
 天文5年(1536)1月1日、本願寺証如が日記を付け始める。//証如21歳。
 天文5年1月4日、返還された山科御坊に新たな道場を作るために立柱が催される。
 天文5年1月7日、尾張清洲城の織田大和守が、本願寺証如宛に、4百文を添えて織田家臣が一向宗徒に迷惑をかけた旨の書状を発信。//大和守は織田信秀の主筋に当たる。
 天文5年1月15日、石山御堂(?)前で能が興行される。//熊野、西行桜、舟弁慶、羽衣、道成寺など12番を興行。
 天文5年2月10日、越後守護代長尾為景が、後奈良天皇から内乱鎮定の綸旨を賜る。
 天文5年2月13日、石山本願寺が、美濃と尾張の門徒衆に上坂して、石山本願寺の警護に就くよう求める。
 天文5年2月26日、後奈良天皇が、即位式を挙げる//費用がなく、10年間延期していた//本願寺も費用の一部を負担//この頃、本願寺は公家にしきりに金品を送り、それらの結果、勅願寺となる。また、本願寺証如は権中納言庭田重親の娘(蓮如の十女祐心と庭田宣親の子供)を妻に迎える。
 天文5年3月、甲斐武田信虎の嫡男太郎が元服。将軍足利義晴の一字をもらい晴信(後の武田信玄)と名乗る。合わせて、駿河の今川氏親の仲人で左大臣三条公頼の娘を娶る。//武田晴信の妻の姉は細川晴元の妻。
 天文5年3月1日、のちの室町13代将軍・足利義輝が、室町第12代将軍・足利義晴の嫡男として東山南禅寺で生まれる。
 天文5年3月26日、一向宗徒が、摂津中島で蜂起し、三好伊賀守を攻める。//三好伊賀守が、一向宗徒側から細川晴元方に寝返ったため。//伊賀守は追われて、木沢長政の元に逃げる。//この後、本願寺側は細川晴元との講和を破ったことに気づき、証如が詫びて木沢長政との調停する。
 天文5年4月10日、越後守護代長尾為景(上杉謙信の父)が、春日山城近くの夷守郷三分一原(ヒダモリゴウサンブイチハラ)において、上条城主上条定憲(越後守護上杉定実の実家)方の宇佐美・柿崎軍と合戦//上条定憲方が数千人討ち取られたと伝えられる。
 天文5年5月8日、播磨の赤松政秀が、石山本願寺に兵糧の借用を依頼し、証如が3000疋を渡す。//これが2回目。1回目がいつかは不明天文5年5月12日、九条稙通と二条尹房(両名とも元関白)が、石山本願寺を訪問。//借財のためか?
 天文5年6月12日、比叡山延暦寺が、石山本願寺に対して、法華宗を退治するために借財と助力を要請し、石山本願寺が3万疋を送る。//武力援助はなし。
 天文5年7月13日、九条稙通が、「本願寺系図」を作り、本願寺証如に送る。//親鸞は日野有信の末孫で九条兼実と由緒があるとして、借財への礼に代える。//本願寺証如は九条尚経(稙通の父)の猶子になっていた。
 天文5年7月20日、比叡山延暦寺から下山した僧兵3万が京の北白川に布陣。合わせて、近江の六角定頼も3万の軍勢を率いて京の東山を越える。//法華宗徒を討伐するため。この頃、京には約3万の法華宗徒がいた。
 天文5年7月22日、比叡山延暦寺の僧兵3万とそれに協力する近江の六角定頼勢3万が、京の法華宗徒3万との間で、戦端を開く。//延暦寺方は京の市街に乱入し、略奪放火を図り、法華宗の寺は焼失。//逃げ延びた法華宗徒の多くは堺に向かう。
 天文5年7月29日、木沢長政が、本願寺証如の仲介を無視して、三好利長らとともに、摂津中島を急襲。一向宗徒は騎馬に蹴散らされ、800人が討死し、中島の一向宗徒は壊滅。//扇動していた下間頼盛や細川晴国は脱出。//証如は中島の一向宗徒を助けず、逆に木沢長政に祝いの使者を出し、船5艘分の兵糧を贈る。
 天文5年8月、安芸賀茂郡の平賀父子の和議が再び破れ、尼子方の興貞を攻撃していた大内方の弘保/貞景父子に毛利元就が援軍を送る。
 天文5年8月6日、本願寺証如が、摂津中島の一向一揆を扇動していた下間頼盛について、加賀、紀伊、飛騨、美濃などの一向宗徒に相手にせぬよう厳戒する。
 天文5年8月19日、室町幕府が、本願寺を赦免する旨の御内書が発出。
 天文5年8月25日、室町幕府が発出した本願寺を赦免する旨の御内書に関する使者が、石山本願寺に到着。
 天文5年8月3日、越後守護代長尾為景が守護代長尾家の家督を長子晴景(後の上杉謙信の兄)に譲る。
 天文5年8月29日、細川晴国が、摂津四天王寺において切腹。//晴国は、細川晴元と家督を争って敗死した細川高国の子。
 天文5年9月、大内勢の陶興房が少弐氏の籠もる北九州の多久城を落とし、少弐資元が自害//これにより大内氏の九州方面の鎮圧が1区切りし、大内氏の目が東に向けられる。
 天文5年9月13日、本願寺下間頼慶が、赦免の答礼のため、京に上る。//幕府や朝廷の処々に金品を贈る。
 天文5年9月15日、本願寺の下間頼慶が、京で、山科や東山の寺領全てを返還する旨の奉書を受領。
 天文5年9月27日、越後守護代を相続した長尾晴景(8月3日)が、朝廷から内乱鎮定の綸旨を賜る。
 天文5年、秋、石山本願寺に加賀浄土真宗の諸寺から毎年恒例の上納金2千貫文を送付。
 天文5年10月29日、石山本願寺が、新屋敷西口に堀を作り、土居を建てる。
 天文5年10月、細川晴元が、法華宗徒の洛中徘徊と寺の再興を禁止。
 天文5年10月19日、木沢長政が、本願寺証如に対して、下間頼秀と頼盛兄弟を赦免してほしいとの書状を出す。//頼秀と頼盛が、敵だった長政に哀れみを乞うた。
 天文5年10月21日、本願寺証如が、10月19日の木沢長政からの書状に対して、下間頼秀と頼盛兄弟を赦さない(?)旨を伝える。
 天文5年10月22日、石山本願寺が、堺と富田の御坊再建を許可。
 天文5年11月、平賀父子の対立を契機にした大内氏の援軍が尼子方の安芸計略の拠点である頭崎城を強襲。尼子経久は大軍で頭崎城を救援。//この合戦で毛利元就は備後双3郡志和地城から安芸山県郡壬生城などの諸城とともに石見邑智郡上下庄、安芸山県郡、備後内の所領を失う。
 天文5年11月6日、石山本願寺が、紀伊の一向宗徒に対して100人の派遣を命じる。//他にも河内久宝寺にも来援を求める。
 天文5年11月12日、石山本願寺と近江の六角定頼が、近江国内の一向門徒を総破門にするという条件で和睦。//定頼が総破門に強く拘ったため。
 天文5年12月、尼子詮久が備中/美作の攻略を終え、出雲月山富田城に帰陣。//天文5年始めごろから尼子方は備後/安芸のみでなく、備中/美作の攻略を進めていた。
 天文5年12月1日、石山本願寺が、六角定頼との和睦条件に従い、近江門徒を総破門。//本願寺側は真剣に実行する気はない。
 天文5年12月24日、長尾為景(後の上杉謙信の父)が病死。享年66歳。法名大竜寺殿喜光道七。//天文の乱(越後)が終焉。
 天文5年、本願寺証如が備後山南の光照寺を通じて尼子経久に太刀/馬代/織物などを贈る。

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