950(1537)_==天文6年==(最新版)

>_<あくまでも司空が各種資料に基づき独自に調査した結果ですので、誤りがあっても司空は一切の責任はとりません。>_<
>_<ご利用に際しては、解説・注意をご確認の上、各人で十分に史実をご確認ください>_<

 天文6年(1537)、尼子経久、81歳を迎え、嫡孫詮久(24歳)に尼子氏当主を譲り、形式上隠居。
 天文6年、清水宗治、備中で生まれる(幼名才太郎)。
 天文6年春、毛利勢が安芸高田郡生田城を落とす。
 天文6年(1537)1月14日、本願寺証如(22歳)が、大僧都に昇進。//朝廷や、仲介役の青蓮院に金品を贈る。
 天文6年2月2日、本願寺が実如の13回忌を実施。
 天文6年2月6日、豊臣秀吉が、尾張中村の百姓父弥右衛門と母仲の間に生まれる?
 天文6年2月、甲斐の武田信虎が、駿河守護を相続した今川義元に、長女を嫁がせる。
 天文6年2月24日、石山本願寺において、金剛氏正らが勧進能を奉納し、証如らが見物。
 天文6年3月初旬、北条氏綱が、武田氏と今川氏との和睦に激怒し、大軍を率いて箱根を越えて、駿河に侵攻する。//武田信虎は援軍を駿河に送り、義元を助ける。
 天文6年4月25日、石山本願寺が、紀伊の雑賀など一向門徒に300人の上坂を命じる。
 天文6年5月9日、本願寺証如が、下間頼秀・頼盛兄弟を見つけたら生害させるよう、加賀四郡に書状を発信。//細川晴元とに紛争を全て二人の責任にするため。
 天文6年6月6日、六角定頼が、平井加賀守を使者に立て、石山本願寺に派遣。6月7日、加賀守は本願寺証如に謁見し、定頼からの進物を贈る。
 天文6年7月1日、妙宗院(浄土真宗:蓮如の第9子、四女)が能登府中で逝去。享年79歳。//将軍足利義政の側室であったこともある。享禄の乱で加賀を追われていた。
 天文6年7月下旬、加賀三カ寺派(浄土真宗)の浪人衆が、加賀本覚寺を襲撃。//本覚寺方に追い払われる。
 天文6年8月、本願寺証如のもとに、加賀三カ寺派の浪人による加賀本覚寺の襲撃の背後に蓮悟がいる旨の知らせが入る。
 天文6年8月、六角定頼が、正式に近江国守護となる。
 天文6年8月16日、尼子勢、石見大森銀山を奪取。//天文2年に大内氏に奪還されていた。
 天文6年9月13日、堺の納屋衆千与四郎(後の利休、この時16歳)が、奈良の富商で茶人の松屋久政を客として京で茶会を開く。//与四郎は武野紹鴎(オウは左側のメが品)に師事。
 天文6年9月15日、本願寺証如が、女房衆や男衆を供にして、四天王寺に参詣。//太子堂に1貫文、金堂や六時堂などに10疋ずつを贈る。

 天文6年、尼子詮久、西播磨に進出。一旦は撤退するが翌年再度大軍を率いて出兵。
 天文6年12月、毛利元就が嫡子少輔太郎(後の隆元)を山口の大内義隆の元に送る。//この頃は安芸山県郡新庄の吉川興経も尼子氏に願えっており、毛利家としては北方の脅威が増していたこともあり、人質という意味で嫡子を山口へ送った。
 天文6年(1537)、室町将軍足利義晴が、周防大内義隆や豊後大友義鑑/尼子経久に和睦と上洛を促す。//この頃の幕府は細川晴元/六角定頼が中心。//大内義隆は来年を期して上洛する旨を返信。
 天文6年12月、尼子詮久、美作から播磨に乱入。播磨守護職赤松政村を撃破。⇒その後、出雲本国で越年のため播磨から退陣するが、深雪のため出雲まで辿り着けず、他所にて越年。//その後、天文6年~9年、尼子詮久(晴久)はこの時期西播磨一帯を制圧。
 天文6年12月、加賀河北郡二番組の旗本鈴見長門が反乱し、石川郡の洲崎兵庫が加勢する。//加賀に対する本山の支配が厳しく、国人衆の散発的な反乱が続く。本山はこれらを強圧。
 天文6年、本願寺証如が、細川晴元に800貫文を贈る。

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