950(1535)_==天文4年==(最新版)

>_<あくまでも司空流の「こうかも」年表ですので、誤りがあっても司空は一切の責任はとりません。>_<
>_<ご利用に際しては、解説・注意をご確認の上、各人で十分に史実をご確認ください>_<

 天文4年(1535)1月、安芸加茂郡で尼子方の平賀興貞が大内方で安芸白山城主の父弘保と弟貞景らの攻撃を受けるが、2月に和睦。
 天文4年3月、毛利勢が備後三次の三吉氏属城三吉城を落とす。
 天文4年3月、毛利勢が備後比婆郡上高野山の尼子方の多賀山通続を攻撃。多賀山通続は水の手を断たれ開城。//多賀山通続は反復常なかったが、一応尼子方の一大勢力だった。
 天文4年(1535)3月20日、石山本願寺のそばの生玉社のある信貴(シギ)の森において、勧進能が催される。//金春系の宮王太夫が演じる。
 天文4年3月25日、本願寺の主戦派下間頼盛が、本願寺証如に暇を申し出る。//頼盛とその父頼玄に関する噂が流れたため。//頼盛は5月の細川晴元勢との合戦に出陣しているので、結局、慰留されたか? 
 天文4年、毛利元就、調略により備後比婆郡甲山城主山内直通を味方とする。//山内直通は尼子経久に背いた経久三男塩冶興久を匿い、最終的に経久の命で塩冶興久を自害に追い込んだことから、尼子氏としっくり行かなくなっていた。
 天文4年4月7日、蓮淳(浄土真宗、蓮如の子息で先代の法主実如の兄弟)が伊勢長島から石山本願寺に移る。
 天文4年4月11日、前年1月の火災で西宮社から消失した宝剣と宝珠が、一向宗徒のもとにあることがわかり、証如はこれを西宮社に返却。
 天文4年4月15日、摂津四天王寺において土塔会(ドトウエ)の祭礼が催される。//実従(浄土真宗)が見学に行った。
 天文4年4月27日、実従(浄土真宗)が、下間頼玄に代わって、御影堂カギ取役に任じられる。※カギは金偏に益。
 天文4年5月30日、細川晴元方が八箇所(大東市近辺)に侵入したため、下間頼盛が町衆を率いてこれを防ぐ。
 天文4年6月10日、細川晴元方と一向宗徒が杜河内で合戦し、一向宗徒が崩れて、細川晴元方が石山本願寺の足元の中道(大阪市東成区中道)まで迫る。
 天文4年6月11日、細川晴元方が石山本願寺の足元にある天王寺へ回り、高津や渡辺、津村などを焼き払う。
 天文4年6月12日、細川晴元方の石山本願寺周辺への攻勢を受けて、石山本願寺側が河内や中島に出陣したが、500人の討死を出して敗退。
 天文4年6月13日、越後守護代長尾為景が、後奈良天皇から御旗を賜る。
 天文4年6月17日、石山本願寺の招集を受けた紀州の雑賀衆が石山本願寺に来援。
 天文4年、興正寺の蓮秀が石山本願寺に入る。//蓮秀は穏健派。摂津国人で一向宗徒になった三宅国村が蓮秀のもとで立ち回る。
 天文4年9月2日、本願寺と細川晴元が和議に向かって動き始める。//蓮秀の尽力による//摂津に在陣する細川晴元方が引き上げる事となる。
 天文4年9月14日、早暁、下間頼秀が石山本願寺を退出し、その昼に弟の下間頼盛も石山本願寺を退出。//これに伴い、下間頼慶が蟄居を解かれて家宰となり、蓮秀とともに証如を補佐することとなる。
 天文4年11月26日、本願寺と細川晴元の和議が成立。//形式上、青蓮院の尊鎮法親王の仲介とする。//主な和睦の条件は、加賀の寺社や公家の所領を返還。
 天文4年12月5日、三河岡崎の松平清康が尾張に侵入して守山に布陣していた所、家臣阿部弥七郎に刺殺される。//弥七郎は父阿部定吉が敵に内通したとの流言に惑わされ、早まって清康を殺害。//守山崩れと呼ばれる。
 天文4年12月18日、蓮秀が、細川晴元との和議成立の功により、本願寺の一家衆に取り立てられる。

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