950(1931)_==享禄4年==

>_<あくまでも司空流の「こうかも」年表ですので、誤りがあってもご容赦ください>_<
>_<ご利用に際しては、解説・注意をご確認の上、各人で十分に史実をご確認ください>_<


 享禄4年(1531)1月、越後衆が陣中の諸法度を定めて長尾為景に忠誠を誓う。//連判の武将は、山浦・桃井伊豆守義孝、中条越前守藤資、黒川四郎右兵衛尉清実、斎藤下野守定信、毛利松若丸、毛利安芸入道祖栄、加治安芸守春綱、竹俣筑後守昌綱、水原伊勢守政家、安田治部少輔長秀、五十公野弥三郎景家、新発田伯耆守綱貞、鮎川摂津守清長、色部遠江守憲長、本庄対馬守房長、山本寺又四郎定種、十郎。
 享禄4年(1531)2月21日、細川晴元が、阿波の三好元長に助けを乞う//三好元長は要請を受けて堺に上陸。
 享禄4年2月28日、細川高国と浦上村宗の軍勢が摂津伊丹城を落とす。
 享禄4年2月30日、細川高国と浦上村宗の軍勢が摂津池田城を落とす。
 享禄4年3月10日、細川高国・浦上村宗の軍勢と細川晴元・三好元長の軍勢が摂津勝間(大阪市西成区玉出本通り)で衝突し、高国方が敗北。
 享禄4年3月25日、阿波細川家の細川持隆が援軍を率いて細川晴元・三好元長の軍勢に合流。
 享禄4年3月、木沢長政が、主家の畠山義宣から離反し、細川晴元に通じる。
 享禄4年3月、蓮淳(浄土真宗)と細川晴元が結ぶ。
 享禄4年春、下間頼秀(浄土真宗)が、再度、加賀へ下向。//超勝寺実顕らの所業はますます激しくなり、蓮悟が本泉寺に実顕を呼び問いただしたが、実顕は本山の後ろ盾を受けているため譲らず、争論となる。
 享禄4年5月9日、蓮悟は蓮慶や顕誓、実悟らにはかり、三カ寺として実顕を成敗することに決する。//本山と加賀三カ寺の代理戦争の様相であり、また、蓮淳と蓮悟の同母兄弟の争いとなる。
 享禄4年6月4日、細川高国と細川晴元が天王寺(大阪市天王寺区四天王寺付近)が衝突。晴元方は三好元長や木沢長政が良く戦い、高国方の赤松政村の寝返りもあり、高国方が大敗。//浦上村宗は戦死、細川高国は尼崎に逃れ、紺屋の藍甕に潜んでいたところを見つかり、6月8日に自害させられる。//その後、畠山義宣が自分から独立して晴元方についた木沢長政を怒り、長政の競争相手である三好元長を味方に引き入れ、さらに茨木長隆らの摂津国人衆は阿波の三好元長を嫌い、木沢長政を応援。細川晴元は木沢長政を応援することになる。
 享禄4年6月8日、細川高国が、大物の広徳寺で自害させられる。
 享禄4年7月、本願寺証如が、加賀三カ寺の蓮悟以下を「本寺違背の徒」と断じ、諸国の門徒に三カ寺成敗のために加賀への出兵を命じる。//白山下に籠っていた超勝寺の実顕らは大いに士気を上げ、実顕と下間頼秀の指揮により波佐谷の松岡寺(ショウコウジ:石川県小松市松岡町)を奇襲し、堂舎を尽く焼き払う。逃げ惑う蓮綱、蓮慶、実慶の三代の住持を捕え、実慶の妻(実顕の娘)を保護。実顕らは蓮綱ら10人を連行し人質とした。
 享禄4年7月?、下間頼盛が、加賀三カ寺(浄土真宗)討伐のための諸国の軍勢を率いて、加賀に着陣//山城・近江・飛騨・三河の門徒が中心で、三河衆の中には土呂本宗寺の実円(前法主実如の子)が参陣していたため、加賀三カ寺方に実顕方が本山側ではないかとの疑義が生じ、加賀が同様。また、実円の参陣を知り、白山本宮も実顕に味方する。
 享禄4年7月23日、加賀に出陣中の本願寺本山方(超勝寺実顕、下間頼秀・頼盛兄弟など)が清沢の願得寺を襲い放火し、寺家・在家が残らず炎上。白山本宮に反して加賀三カ寺方に味方した金剣宮も焼失。//願得寺には実悟がいて、加賀三カ寺に次ぐ寺格だった。//実悟は、蓮如からの聞き書きを集めていた願得寺が焼失したことを嘆きつつ、若松に逃れる。この時、実悟40歳。
 享禄4年7月29日、加賀に出陣中の本願寺本山方(超勝寺実顕、下間頼秀・頼盛兄弟など)が若松の本泉寺に進撃し、堂舎をはじめ寺内町まで全てを焼き払う//本泉寺は加賀三カ寺の本拠であったが、この戦いで滅び、住持の蓮悟は継母蓮能の縁故から能登守護畠山義統を頼って、実悟らとともに府中へ亡命。三カ寺に与力した数百人の国人衆も能登や越中へ出奔。
 享禄4年8月17日、加賀に出陣中の本願寺本山方(超勝寺実顕、下間頼秀・頼盛兄弟など)7千が、山田の光教寺(住持:顕誓)に進撃する。三カ寺方は越前守護朝倉孝景に援兵を乞うとともに、月津口(小松市月津町)に3千で迎え撃つ。また、三カ寺方は野代の勧帰寺(小松市本折町)を襲い住持の超玄を殺害し、本山側は総崩れとなって敗走//本山側の700人が討たれる。
 享禄4年8月19日、加賀三カ寺(浄土真宗)の要請を受け、朝倉教景が率いる朝倉勢8千が加賀救援のため、越前を進発。//顕誓は吉崎御坊の再建を条件に、朝倉と協力することを決める。//朝倉勢の援軍を聞き、能登や越中に逃れた三カ寺派の国人衆が徐々に加賀に帰国。
 享禄4年8月20日、畠山義宣が、飯盛山城(大阪府四条畷市南野)の木沢長政を攻める。//寄せ手の畠山勢に三好元長も参陣。//細川晴元は、姉婿の畠山義宣や自分を後押しした三好元長を見捨て、木沢長政の救援を決め、摂津中島の三宝寺(大阪市東淀川区大隅)に陣を構え、畠山勢の背後を脅かす。このため、畠山勢は撤退。//細川晴元と畠山義宣、三好元長の対立は深刻化。
 享禄4年9月15日、能登に漂泊していた実妙(浄土真宗)が逝去。//実妙は松岡寺の蓮慶の妻で実如の娘。
 享禄4年9月18日、蓮綱(浄土真宗:蓮慶の父)が本山方の実顕、下間頼秀・頼盛兄弟に病身で捕えられたまま、山内で逝去。享年82歳。
 享禄4年10月5日、本願寺証如が、加賀の波佐谷で本願寺本山方と加賀三カ寺方が衝突した際に三河衆が奮戦したことに対して、感状を与える。//その後、朝倉教景の越前勢8000が本折に進出、三カ寺方は寺井湊に陣を張り、さらに能登や越中から戻った河合、洲崎などの加賀国人衆が応援の畠山や神保勢とともに南に下り太田に達し、本願寺本山勢を挟み打ちする形勢となる。
 享禄4年10月18日、長尾為景が、飯田小二郎の戦功を賞し、夷守郷内の地を与える。また、村山直義、上野内匠助等に戦乱平定後、土地を与えることを約束。
 享禄4年10月26日、加賀三カ寺(浄土真宗)の要請で救援に向かった朝倉勢が、手取川を渡河して本願寺本山方を攻撃し、本山方の首級700ばかりをとり、勝利する。//朝倉勢は松任(松任市番田町辺)周辺に放火するが、その夕刻、天候が急変して冬の雨が降り始めたため、手取川の増水を案じて朝倉勢は手取川南岸の寺井に一旦引き揚げる。
 享禄4年10月28日、10月26日から降り始めた加賀の雨は止まず、朝倉勢が手取川の渡河ができない状況を見た本願寺本山方は、朝倉勢に内通した玄任次郎右衛門を討伐。//朝倉勢は800人の足軽を船で対岸に渡したが、既に玄任勢は多くが殺され、敗走した後だった。
 享禄4年11月2日、加賀三カ寺方の能登、越中勢の南進を見た本願寺本山方が、先日朝倉勢に討たれた味方の首や玄任次郎右衛門方の首を集めてさらし、朝倉勢が敗れたように見せかけ、能登勢らの動揺を誘った後、下間頼秀の下知で本山勢が突撃し、能登勢の畠山家俊ら多くの首を討つ。//三カ寺方の残兵は能登や越中へ潰走。//朝倉教景が手取川に舟橋を架けようとしたが、間に合わず。
 享禄4年11月3日、加賀三カ寺の要請で加賀救援に出陣していた朝倉教景率いる朝倉勢が加賀の陣を払って越前に帰る。//加賀三カ寺勢は、本願寺本山勢に敗れ、光教寺の顕誓をはじめ、三カ寺方の加賀国人衆らは朝倉勢とともに越前に同行し、一乗谷に身を寄せる。//蓮悟、実悟、顕誓がこの後流浪する。
 享禄4年11月18日、蓮慶(浄土真宗)や実慶(浄土真宗)が殺される。//加賀三カ寺方だったが、本願寺本山方の実顕や下間頼秀・頼盛兄弟に捕えられ、白山山中で人質となっていた。

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