950(1921)_==大永7年==

>_<あくまでも司空流の「こうかも」年表ですので、誤りがあってもご容赦ください>_<
>_<ご利用に際しては、解説・注意をご確認の上、各人で十分に史実をご確認ください>_<

 大永7年(1527)2月、安芸武田氏の属城安芸郡新城/熊野城が相次いで大内勢により陥落。
 大永7年(1527)2月5日、丹波の柳本賢治が山城に進出し、山崎(京都府乙訓郡大山崎町)を占領。
 大永7年2月13日、細川晴元の軍勢と細川高国の軍勢が川勝寺付近の桂川で衝突し、晴元方が大勝する。//三好勝長らが晴元方として戦闘。
 大永7年2月14日、細川高国が室町将軍足利義晴を奉じて近江坂本へ脱出。//これに伴い、柳本賢治の兵が入京。
 大永7年(1527)3月、安芸武田氏の属城安芸郡瀬野鳥子城が大内勢により陥落。ついで、武田光和の安芸銀山城の攻略にかかる。
 大永7年3月22日、細川晴元が堺に上る。14歳。//阿波の三好元長が細川晴元と足利義維(ヨシツナ)を擁立。//三好元長は細川高国に殺された三好之長の嫡孫にあたる。足利義維は足利義晴の弟にあたる。
 大永7年4月2日、本願寺証如が、慣例に従い青蓮院において、得度。12歳。
 大永7年(1527)5月、大内勢が安芸府中城を府中城を攻めたため、武田光和は単独救援に赴く。
 大永7年7月、毛利勢と尼子勢が備後和智で合戦。
 大永7年7月、尼子経久が備後に入る。
 大永7年8月、尼子経久と大内氏重臣陶興房が備後江田で対陣。
 大永7年8月9日、尼子経久と大内氏重臣陶大内氏が備後和智の細沢山で合戦。尼子勢は米原山城守、牛尾信濃守らを失い、和智豊広も大内氏に下る。
 大永7年10月13日、足利義晴を擁した細川高国が、朝倉義景や六角定頼の兵とともに、近江から京に入り、東山若王子(京都市左京区若王子)に陣を張る。//この後、東寺に移る。//11月19日、主力の朝倉義景勢が西院(京都市右京区西院)において、三好元長勢と戦い、敗れる。
 大永7年11月、尼子勢と大内勢が三次で合戦。
 大永7年11月19日、足利義晴および細川高国方の朝倉義景が西院(京都市右京区西院)において、足利義維・細川晴元方の三好元長と争い、敗れる。
 大永7年、近江堅田の本福寺(浄土真宗)の明宗のもとへ、蓮淳(浄土真宗)から呼び出しがあり、明宗が大津近松の顕証寺(浄土真宗)に参上したところ、本福寺から顕証寺に門徒衆を譲ってほしいとの依頼を受けるが、明宗は拒否。//明宗は伊予水軍河野氏の末裔で、先代明顕の養子になった。//怒った蓮淳は明宗に対して二度目の破門を言い渡す。
 大永7年12月12日、越後守護代長尾為景の嫡子晴景が、将軍足利義晴から一字を賜り、晴景と称する。

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