峡の劔:第六章 四天王寺(2)

 ほどなく老僧が細長い形状の宝物を収めた綾織の袋を両手で奉戴しながら、金堂を退出する。
―宝剣…。
 亥介達は老僧の手元を凝視する。
 その瞬間、老僧は金堂の入口を警護する四人の僧侶を手招き、突然、亥介達を指さす。老僧と亥介達の視線が絡まる。遠くにあるはずの老僧の瞳が二人の視界に大きく広がる。
―魅入られる。
 二人は視線を外して、老僧の瞳から逃れる。しかし、老僧が自分たちを指し示す指先が二人の瞳の中でゆっくりと回転しながら次々と分裂し、二人を妖異の世界へと引き摺り込む。二人の視界が無数の指先に支配される寸前、指は消滅し、微笑を浮かべた老僧の皺顔に変化する。その刹那、僧侶達が次々と半鐘、木鉦、指笛などを鳴らし、寺域全体に侵入者の存在を知らせる。
「嵌められた…。」
 総馬が呟く。
 老僧は何事もなかったように悠然と中門へ歩いていく。
 伽藍内にいる僧兵、僧侶が亥介達の足下に集まり始める。伽藍内の騒擾は外部にも伝播するが、伽藍の外側にいる僧達は侵入者の位置を特定できないまま、いたずらに右往左往している。亥介は背後を振り返って総馬の袖を引き、
―撤収じゃ。
と、目顔で告げて促す。回廊内の僧侶、僧兵達が篝火を集めて亥介達の姿を求めつつ、老僧が指し示した場所に出鱈目に矢を射込む。回廊外の護衛も回廊内に集まる篝火と矢唸りを頼りに亥介達の足元に集まる。
―囲まれる。
 亥介は回廊の外側に向けて高々と着衣を一枚だけ脱ぎ捨てる。空中に舞った亥介の着衣を賊と誤認した回廊外の護衛達が雄叫びを上げながら、その布切れに無数の矢玉を浴びせる。護衛達の意識を逸らしている間に、亥介と総馬は腹這いのまま素早く屋根の上を移動し、先刻の突風で篝火が消えたままの中門外側にある小さな植込みの闇溜まりに静かに着地し、寺域の騒擾を背中に感じながら、四天王寺をあとにする。
 寺域の外に広がる漆黒の闇の向こうを、二人は目を凝らし、先刻の老僧の存在を探る。しかし、闇の向こうには静寂だけが広がっていた。
 亥介達は小屋に戻り、清太と弥臓に老僧の妙技を始め四天王寺の中心伽藍で起こった出来事を詳細に報告した。
「伽藍全体に妖術をかけ、宝剣を盗み出し、最後には亥介と総馬の存在を僧兵達に告げて、自分の退去を容易にするとは、心憎いばかりの施術だ。」
 亥介と総馬の表情は固い。
「老僧は自分の退却のため、わざとわたし達に術を掛けるのをやめたのかもしれません。」
 亥介達は、宝剣の手掛かりはおろか、偸盗の正体について断片さえも掴めなかったことを悔んだ。

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