峡の劔:第七章 黒衣の旅僧(1)



 数日後の夕刻、松永陣屋の門前に墨染めの布で全身を覆った旅僧が現れる。
 弥蔵が旅僧の唇の動きを読み取る。読唇術などの細かい芸当は経験豊富な弥蔵の十八番である。
―弾正殿に数寄の僧が喫茶しに参ったと伝えよ。
 弥蔵が清太の方を振り返って旅僧の言葉を伝える。
 松永陣屋には、織田氏の伝令や使者は当然だが、戦陣であるにも係わらず茶の湯を嗜む商人や茶道具を納めに来た商家の手代など様々な人間が出入りする。
 清太は「茶」に関して多少の知識はあったが、「茶」を名目に戦場の陣屋に得体の知れない者が多数出入りし、さらに、侘び寂びなどと言いながら、主客のみで小さな部屋に籠って余人を近付けず語り合うことについて、先日の藤佐の件もあり、相当な疑念を抱いている。
「妖怪の類いは夕刻に姿を現すものと相場が決まっています。少し様子を見て参ります。」
 冗談交じりに言った弥蔵の影が、松永陣屋の砦柵の向こう側に吸い込まれる。
 四半刻ほど経過する。
 夕陽が山の端に懸かり、濃い暮色が周囲を支配する。
 清太の瞳が、夕闇を突いて陣屋の砦柵を飛び越える弥蔵の影を、捕える。
 直後、弥蔵を追跡する形で別の影が砦柵を跳び越える。
―先刻の旅僧…。
 清太は弥蔵の背後にある黒い影を識別する。
 弥蔵の軌跡が、清太の潜む樹幹を避けるように右へと緩い円弧を描く。
 旅僧が弥蔵を追跡しながら、短く口笛を吹鳴する。尖った高音に反応して、清太の左側、十間ほど離れた位置に、忽然と殺気が湧き上がる。清太は太い樹幹の背後に姿を隠し、杖を握る左手に力を込めながら、右手を懐に入れて小柄を握る。旅僧は一心不乱に疾走している弥蔵との距離を次第に縮める。
 清太の左側に湧いた殺気が弥蔵の前方に回り込もうと移動する。弥蔵はその意図を避けるため、進路を左方へ曲げる。
 結果的に弥蔵は清太の潜む樹幹の脇を駆け抜ける。
 執拗に弥蔵に追い縋る旅僧がその樹幹を通過した刹那、清太が立て続けに二本の小柄を旅僧に投じる。
 小柄は旅僧の影に吸い込まれる寸前に、黒衣に弾かれたように失速し、乾いた音を立てて地面に転がる。
 清太は剣を抜き、旅僧に襲い掛かる。旅僧は大きく真横に跳び、清太が振り抜く瞬速の太刀筋を躱す。清太は大胆に跳躍して、渾身の斬撃を繰り出す。旅僧は全身を包む黒衣を大きく揺らしながら、後方に跳んで、清太の鋭鋒を避ける。
 清太が旅僧の立っていた場所に着地する。
 その瞬間、清太は鼻腔の奥にごく僅かな幻惑を感じて、息を止める。
「薬。」
 清太は鋭く発声して弥蔵に知らせ、同時に、後方に大きく跳び下がり、薬から逃れる。
 旅僧がゆったりとした動作で墨衣から小太刀を握った右手を出し、身体の前面で構える。
―小太刀はあくまで守勢。攻めは黒衣の中にある…。
 清太は旅僧の出方を窺う。
 その背後で疾走する弥蔵の進路にもう一つの影が回り込み、交錯する。刀身がぶつかる金属音が響く。小さな火花が飛び、夕闇の中に影の姿が一瞬、そして、幽かに浮かび上がる。
「兎吉…。」
 清太はその言葉を聞いて、弥蔵に駆け寄ろうとするが、旅僧が黒衣の内側に隠したままの左手の意図を掴めず、次の動作に移ることができない。旅僧が清太の焦燥を感じ取り、余裕を含んだ語調で語り掛ける。
「小僧、なかなかの腕前じゃ。ゆくゆくは一廉の術者になるだろう。とは言え、今のお主達にもやるべきことがあり、儂にもそれがある。ここは双方矛を収めぬか。」
 旅僧は一方的に言い捨てて、鳥類の鳴声に似た独特の口笛を短く鳴らし、
「百足(むかで)、退くぞ。」
と命じる。
「待て。」
 清太と弥蔵が同時に叫ぶ。しかし、旅僧と百足と呼ばれた影はそれを黙殺し、後退する。弥蔵が百足を追う。百足が右手を左から大きく振り抜く。闇中に光沢のある微粉が舞う。
―こちらも薬…。
 弥蔵は微粉を含む空気に僅かに触れ、そして、浅く吸引する。皮膚に刺激や痛みはないが、鼻腔に僅少な痺れがある。弥蔵は呼吸を止め、逃走に加速を加える百足の背中に突進する。
 清太と旅僧は未だに相対したままである。
 旅僧の袖口辺りにある左手が不気味に蠢き、赤褐色を帯びた微粉末が清太と旅僧の間の空間に拡散する。清太が杖を握る左拳を突き出すと、微粉末に触れた部位に強い刺激が走る。清太はその知覚と同時に咄嗟に後方へ跳ぶ。
―目に入れば、視力を失う。
 赤褐色の煙幕の向こうで百足、弥蔵、そして、旅僧の背中が清太の視界から遠ざかる。弥蔵の背後を追う形になった旅僧が身に纏う黒衣を翻し、蒼白く光る細い針を矢継ぎ早に弥蔵に投擲する。
「弥蔵。」
 清太が咄嗟に叫ぶ。
 弥蔵は、
―振り返ればまともに得物を受ける。
と悟り、弥蔵は反射的に真横に跳ぶ。
 旅僧は畳み掛けるように弥蔵の顔面に次々と針を放つ。弥蔵は無数の針による波状攻撃を避けきれず、反射的に左腕を盾代わりにして受け止める。
 百足が踵を返し、弥蔵に襲い掛かる気配を見せる。
「退け。」
 旅僧が鋭く命じる。百足は、多量の微粉末を弥蔵に向けて無造作に投げつけ、反転する。
「兎吉、御劔をどこに持ち去った。」
 弥蔵が百足の背中に向けて発した苦しげな叫びが、闇に沈んでいく天王寺砦に虚しく響いた。

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