950(1582)_==天正10年==(旧版)


>_<あくまでも司空流の「こうかも」年表ですので、誤りがあっても司空は一切の責任はとりません。>_<
>_<ご利用に際しては、解説・注意をご確認の上、各人で十分に史実をご確認ください>_<



 天正10年(1582)?月、法華寺の事件//明智光秀が信長の前で「われらも年ごろ骨折った甲斐があって、諏訪郡のうちはみな上様の兵だ」といったことを信長が怒り、詰問。(色々と疑わしい点あり)
 天正10年(1582)1月1日、羽柴秀吉、播州勢を連れ安土に滞留。//信長に御祝言上のため。織田信長に豪勢な土産を準備。
 天正10年(1582)1月4日、秀吉、播州勢を連れ、安土を発つ。//本拠姫路に戻るため。途中摂津吹田で茶人長谷川宗仁の接待を受け、船中で茶の湯を愉しむ。その日は尼崎で1泊。
 天正10年1月(1582)5日、秀吉、姫路に到着。
 天正10年1月7日朝、明智光秀、津田宗及・山上宗二と茶会を催す。
 天正10年1月15日朝、明智光秀、博多宗室・津田宗及と茶会を催す。
 天正10年1月18日朝、明智光秀、津田宗及・銭屋宗納・山上宗二と茶会を催す。
 天正10年1月、宇喜多氏が宇喜多直家の喪を発表。
 天正10年1月下旬、小早川隆景が備中国境七城の城主を三原城に招く。//織田氏と毛利氏の勢力の最前線。
 天正10年1~2月頃、秀吉、堺の商人に中国地方の米の買い占めを命じる。
 天正10年2月、明智光秀が武田勝頼に信長に謀反する旨の書状を送る。(甲陽軍鑑より。これは疑わしい。)
 天正10年(1582)2月12日、織田信忠が武田勝頼討伐のため岐阜を出陣。
 天正10年2月12日、蜂須賀正勝、黒田孝高、3千3百を率いて、備前宇喜多と打ち合わせ児島郡常山城(城主戸川平右衛門)を攻略し、備中の国境に布陣。
 天正10年2月、織田信長、長宗我部元親に対して、土佐・阿波二国を安堵し、その他を信長が召し上げる旨を通知//長宗我部元親はこれに怒る。元親は独力により既に四国を大略制覇。
 天正10年3月1日、清水宗治、嫡男源三郎に宛て手紙を送る。//同年4/2に秀吉の備中乱入があることを予測した文章がある。
 天正10年3月2日、織田信忠率いる織田勢が遠江高遠城を落とす。
 天正10年3月5日、織田信長が武田勝頼討伐のため安土を出陣。同年2月に信忠が先発。
 天正10年3月10日頃、蜂須賀正勝、黒田官兵衛備前石山城に入城(?)//宇喜多氏の様子を探るため。
 天正10年3月11日、武田勝頼が自害し、甲斐武田氏が滅亡。
 天正10年3月13日、黒田官兵衛、蜂須賀正勝、吉備津宮神主堀家掃部に信長の再度の書状と誓詞を高松城内清水宗治と中島大炊助元行に持参させる。
 天正10年3月15日、羽柴秀吉が山陽道攻略のため、姫路城を進発。(武功夜話には同年3/1とあるが、3/15が正解と思われる。)// この前後に蜂須賀正勝、黒田官兵衛の二人を岡山に派遣。
 天正10年3月16日、羽柴秀吉が備前福岡(長船郡福岡)に到着。
 天正10年3月19日、羽柴秀吉が備前亀山城(沼城、岡山市沼)に入城。
 天正10年3月、織田信長が滝川一益に上野国および信濃国の小県、佐久の2郡を与える。
 天正10年3月、織田信長が森長可に信濃国高井、水内、更科、埴科の四郡を与え、森長可は川中島の海津城を居城に定める。
 天正10年3月、柴田勝家率いる織田北陸方面軍が魚津城/松倉城を包囲。
 天正10年4月4日、羽柴秀吉が宇喜多氏の本拠石山城に入城。
 天正10年4月5日、黒田官兵衛と蜂須賀正勝が吉備津宮神主堀家掃部に織田信長誓詞を高松城内の清水宗治、中島大炊助元行に持参するよう依頼。
 天正10年4月11日頃、宇喜多家重臣花房職之、戸川秀安が日幡城の副将上原元祐に内応を促す。元祐も承諾。//元祐は毛利元就の娘婿。
 天正10年4月11日、宇喜多家重臣花房職之、戸川秀安が高松城副将中島大炊助元行に内応を促す。//恐らく、城主清水宗治にも誘いはあったものと思われる。
 天正10年4月14日、羽柴秀吉、宇喜多直家の備前岡山城を進発。宇喜多勢一万を加え、三万余で西進。ここで宇喜多直家の嫡男秀家を人質として預かる。
 天正10年4月14日(?)、羽柴秀吉が備中高松城攻めのための本陣を竜王山に置く。
 天正10年4月15日、羽柴秀吉、備前勢8千を合わせ、総勢2万7千5百余人を率い、備中に侵攻。(人数2万7千5百余人は武功夜話より)
 天正10年4月15日夕刻、羽柴秀吉が宮地山城の攻略を開始(夕刻の記述は陰徳太平記より)
 天正10年4月20日、羽柴秀吉が備中庭瀬へ(武功夜話より。ただし、前後関係からこの記述は疑わしい)
 天正10年4月21日、羽柴秀吉、本陣を八幡山の東方にある立田山に移す。//立田山は高松城を遠く眺めることができる場所で、ここにおいて地元の地頭(百姓)宮内平左衛門を呼び寄せて、足守川のことなどを聞いたという伝説がある。
 天正10年4月24日、羽柴秀吉が上原元祐に宛て、約束した内応の履行を促す。
 天正10年4月25日、羽柴秀吉が冠山城を落とす。浮田忠家率いる宇喜多勢が主に担当。林三郎左衛門重真自害、重真の家来139人も討ち死(萩藩閥閲録より。ただし、諸説あり真相不明)//林重真は清水宗治とともに切腹(陰徳太平記より)。冠山城は清水宗治の郎党林重真と松田盛明、近隣の武士竹井将監、舟木与五郎ら三百余名で守る。いつから攻略が始まったかわからないが、1日で落ちたという説も(陰徳太平記より)。秀吉の武将杉原七郎左衛門が策を講じ鉄砲の火縄を柴垣にしかけ、城内に放火。加藤虎之助、1番乗り。このとき、黒田長政が初陣したとの逸話もある。
 天正10年4月27日、羽柴秀吉、高松城を総攻めを敢行。//浮田忠家率いる宇喜多勢(八幡山に布陣)が城の西沼押出式の端の外で朝から昼頃まで戦ったが、寄せ手の死者426人、城兵97人。
 天正10年4月、蜂須賀正勝と黒田官兵衛が、再三に渡り宮地山城主乃美少輔七郎元信に内応を誘う。//宮地山城は城兵4百余人。
 天正10年5月?日、庚申待の夜の事件//信長、酒宴の際に明智光秀が小用に立ったことを怒り、鑓または脇差しで光秀を詰問。(諸説あり真相不明)
 天正10年5月初旬、織田信長、三好康長(笑岩入道)を先鋒として四国阿波勝瑞城に派遣。
 天正10年5月1日、堀秀政が織田信長の使者として備中高松の羽柴秀吉に会う。//高松城の早期落城を促す、秀吉は早速軍議を開き、水攻めを行うことを決定、早速準備に入る。
 天正10年5月2日、羽柴秀吉、備中高松城を2回目の総攻めを実施。朝から昼まで、和井田口で戦う。主に宇喜多勢。死者は攻撃側25人、城側85人。
 天正10年5月2日、羽柴秀吉が備中の宮地山城を落とす(和睦交渉の使者信原内蔵允に宮地山城の出丸の主将船木藤左衛門が内通したため)。//山城の宮地山城は水の手を絶たれたため開城したとの説もあり
 天正10年5月4日、織田信長、三職推任の勅使を受ける。
 天正10年5月7日、羽柴秀吉が備中高松城攻めの本陣を蛙ヶ鼻へ移す。
 天正10年5月7日、信長、三男織田(神戸)信孝に四国征伐を命じる。副将を丹羽長秀に命ずる。//織田信長は条書を神戸信孝に与え,讃岐を神戸信孝に,阿波を三好康長に与え,その他の国は織田信長自身が淡路に出馬したときに命じる旨,申しつける。織田信長は,四国征伐に行くつもりだったと思われる。丹羽長秀はこの後居城佐和山城に帰城しているものと思われる(?)
 天正10年5月8日、羽柴秀吉が備中高松城水攻めのための築堤工事を本格的に着工。
 天正10年?月、織田信長、甲斐恵林寺の快川紹喜が佐々木承禛の子供次郎を匿ったという罪で、紹喜以下の僧達を山に追いつめ、焼草を積んで火をかけ、これらを焼き殺した。//炎に包まれた快川紹喜「心頭滅却すれば、火もまた涼し」と言ったという伝説。
 天正10年5月11日、丹羽長秀と織田信澄が安土を出発(信長公記などの記述だが、誤りではないか)
 天正10年5月14日、織田信忠が甲州征伐から戻る。
 天正10年5月15日、徳川家康が穴山梅雪とともに安土に来て、織田信長に拝謁。//徳川家康は織田信長に3千両を献上。
 天正10年5月17日、羽柴秀吉から織田信長への中国への来援要請が、織田信長のもとへ到着。//織田信長は、明智光秀、細川忠興、池田恒興、塩川吉大夫、高山(右近)重友、中川清秀らに中国出兵を命じる。
 天正10年5月17日、明智光秀、信長に中国遠征を命じられ、安土から坂本に帰城。
 天正10年5月17日、織田信長、堀秀政を使者として、秀吉に遣いさせる。
 天正10年5月19日、羽柴秀吉が、柴田勝家の与力である溝江大炊允に対し陣中見舞いを謝し、西国の戦況を伝える。
 天正10年5月19日、羽柴秀吉が、備中高松城の水攻めのために普請していた築堤工事が完成。
 天正10年5月20日、織田信長が、明智光秀に代えて、丹羽長秀、堀秀政、長谷川秀一、菅屋九左衛門の四人に徳川家康の馳走役を命じる。(信長公記より。堀秀政は備中に使者として出ているなど、真偽不明)
 天正10年5月21日、織田信忠、小姓・馬廻り衆を率いて京都に入り、二条妙覚寺を宿所とする。
 天正10年5月21日、徳川家康、安土を発って、京都に入る。//入京に際して、織田信長は9月15日に徳川家康から献上された3千両の金のうち、1千両を返還する。また、長谷川秀一を案内者として、徳川家康に付ける。
 天正10年5月21or22日、毛利軍の小早川隆景2万(日差山)、吉川元春1万(岩崎山)、毛利輝元1万(猿掛山)の総勢4万の援軍が備中高松城に到着。
 天正10年5月?日、秀吉、加茂城(城主桂民部大輔広繁)を攻略するも、広繁の抵抗に合い失敗。//東の丸守将生石中務少輔、生石藤四郎、西の丸に上山兵庫介元忠が守り、城兵は総勢3200余。宇喜多家重臣戸川平右衛門に内応を誘われた生石中務が寝返り
 天正10年5月25日、備中高松城、水攻めにより周囲の民家が水没。
 天正10年5月26日、明智光秀、坂本城を発して、居城丹波亀山城に入る。
 天正10年5月27日、織田(神戸)信孝、丹羽長秀、四国征伐のため安土を出発。//摂津・和泉で兵の集結を待ち、6月1日または2日に四国へ渡海の予定。兵1万5千とともに安土を出発(『フロイスの書簡』より)。
 天正10年5月28日、明智光秀、愛宕山に詣でて、その夜はそこに参籠
 天正10年5月29日、徳川家康、摂津堺に赴くため、京都を出発。
 天正10年5月29日、織田信長、小姓のみを連れ、四条西洞院本能寺を宿所とする。
 天正10年5月29日、明智光秀、里村紹巴らと愛宕山西の坊で連歌百韻を催す。//光秀「ときは今、あめが下しる五月哉」、西坊「水上(みながみ)まさる庭の松山」、紹巴「花落つる 流れの末を せきとめて」と詠んだとの伝説。
 天正10年5月29日、明智光秀、西国出陣のため、鉄砲の玉薬以下長持などの荷物約百荷を西国に向けて発送(?)(川角太閤記より)
 天正10年6月1日、徳川家康、摂津堺において津田宗及および松井友閑に茶の湯を招待される。
 天正10年6月1日夜、織田信忠、村井民部大夫貞勝が本能寺を訪れ、織田信長とその近習と歓談。深更、織田信忠は明覚寺に戻る。
 天正10年6月1日夜、明智光秀、軍勢を率いて、亀山を出発。
 天正10年(1582)6月2日、本能寺の変。織田信長が明智光秀に討たれる。織田信長、享年49歳。森蘭丸(長定)以下近臣70~80人が殉じる。
 天正10年6月2日、村井貞勝、本能寺の騒擾を聞き、本能寺に入ろうとしたものの、敵に遮られて入れず、やむなく明覚寺の織田信忠のもとに知らせる。//村井貞勝の屋敷は四条西洞院本能寺の門外にあった。
 天正10年6月2日、本能寺の変後、織田信忠、明覚寺から5百の兵とともに二条御所に移り、明智光秀軍を迎え撃つも敗北。織田信忠、村井貞勝以下戦死。織田信忠、享年26歳。//このとき、二条御所は皇太子誠仁(さねひと)親王のすまいとなっていたが、ここを信忠が請うて、入城。皇太子以下女房たちは、上の御所に移動し、その後、戦が始まる。二条御所は、押小路室町にあった。
 天正10年6月2日、徳川家康、本能寺の変を知る。//徳川家康は有名な伊賀越えをして、岡崎に帰ることができた。同行していた穴山信君は途中で一揆に殺された。
 天正10年6月2日、明智光秀が、本能寺襲撃後に、京都西南の山崎に近い勝竜寺城に家老溝尾庄兵衛を遣わす。
 天正10年6月2日、筒井順慶,中国出陣のため京都に向け居城大和郡山城を出発するも、途中、本能寺の変を聞き引き返す。
 天正10年6月2日、明智光秀が、本能寺の変後、近江坂本城に戻るため、京都を出発。
 天正10年6月2日、明智光秀が、近江大津を発ち、近江瀬田に至り、瀬田の城主山岡景隆を誘降するも、景隆は瀬田の橋を焼き落とし、居城にも火をかけて山中に引き退く。
 天正10年6月2日夕刻、明智光秀、瀬田の橋の修築を命じ、坂本城に入る。
 天正10年6月2日夕刻、安土城の留守居役蒲生賢秀、安土城に拠って明智光秀に対抗することを諦め、近江日野城の嫡男蒲生氏郷(当時はさと秀と名乗った)に来援と人足の調達を乞う。//安土城はあ在番の諸将が逃げ散り、大混乱に至った。
 天正10年6月3日、小早川隆景、吉川元春、日差山山頂の陣を完成。明後日、羽柴七郎左衛門の陣に攻め掛かることを決定。
 天正10年6月3日、蒲生賢秀、氏郷父子、安土城の信長の妻妾、一族を伴って、居城日野城に退去。//安土城を木村次郎左衛門に渡した。
 天正10年6月3日夜、羽柴秀吉の元に本能寺の変の報せが届く。
 天正10年6月3日夜、安国寺恵瓊、羽柴秀吉に呼ばれ、蛙ヶ鼻の秀吉本陣に赴く。
 天正10年6月3日、柴田勝家が上杉景勝の属城越中魚津城を落とす。
 天正10年6月3日、柴田勝家、越中魚津城を落とした後、松倉城(富山県魚津)にて上杉景勝の将須田満親を囲む。
 天正10年6月3日、細川藤孝・忠興父子,本能寺の変を知り,もとどりを払って,信長への弔意を表し,藤孝は隠居して,忠興に家を譲り,去就を忠興に一任。//この後,忠興は家老松井康之を通じて光秀の女婿明智秀満宛に義絶を伝え,信孝の所に二心なきことを述べさせ,妻玉を丹後の三戸野に幽閉。
 天正10年6月3日、筒井順慶,大和国に兵を出し,治安維持に努める。//丹羽長秀,織田信孝から来属の申し出があったが,筒井順慶はこれには応じず。
 天正10年6月4日、備中高松城の吉川元春、小早川隆景と羽柴秀吉が和睦。備中高松城主清水宗治が自害。清水宗治、享年46歳。//清水宗治切腹の際、宗治の兄月清(出家)、末近信賀、難波伝兵衛、国府一介、荒木三河が死出の供をしたとの説あり。
 天正10年6月4日、筒井順慶、明智光秀への援軍として、配下の一部を山城に送る。//真相不明。
 天正10年6月4日、徳川家康、伊賀越えにて、岡崎城に到着。//家康は本拠浜松城に赴かず、岡崎城からそのまま明智光秀に敵対行為を開始。
 天正10年6月5日、毛利氏が織田信長の急死を知る。//紀州雑賀から、東福寺の僧、播州の一向宗徒などが知らせたか?
 天正10年6月5日、羽柴秀吉が備中からの退却を開始。
 天正10年6月5日、大阪城本丸に入っていた織田信孝,丹羽長秀は謀議して,二の丸千貫櫓にいた織田(津田)信澄を攻めて,これを斬る。//織田(津田)信澄,死去。信澄は,織田信長の舎弟武蔵守信行の子であり,光秀の女婿。近江高島郡大溝城主で組下には朽木元綱,吉竹治左衛門などの近江侍がいた。
 天正10年6月5日、明智光秀、瀬田の橋の修理を終え、安土城に至り、安土城を受領。//信長が収集した茶道具等の宝物を取り出し、部下に下げ与える。
 天正10年6月5日、明智光秀が、近江半国の旧守護京極高吉の子京極高次を将として、その旧臣山本山の城主阿閉貞征と光秀の近従山田八右衛門らとともに、秀吉の本拠長浜城を攻めさせてこれを占領し、斉藤利三をこれに入れる。
 天正10年6月5日、明智光秀が、前の若狭守護武田元明らに、丹羽長秀の本拠佐和山城を攻めさせ、これを落とす。山崎片家を佐和山城に入れる。
 天正10年6月6日、森長可、越後の関山辺りまで出兵し、北国の柴田勝家と連携して、上杉氏を圧迫していたが、本能寺の変報に接し、すぐに海津城に戻り、その後、家老と処置を相談の上、結局、上洛して弔い合戦をすることに決する。//森長可には信濃国を保持する自信が無かっため、猿ヶ馬場で一揆を退けてやっと本国美濃に帰った可能性が高い。
 天正10年6月7日、羽柴秀吉が備中高松城から姫路城に到着。さらに同日、羽柴秀吉自軍を姫路城に収容。//いわゆる「中国大返し」
 天正10年6月8日、明智光秀、安土城の留守居に明智弥平次秀満を入れおき、安土を発って、坂本城に帰還。
 天正10年6月9日、明智光秀,坂本城を発ち,京都に入る。この際、公家衆の出迎えを受けた?
 天正10年6月9日、明智光秀、禁中に銀500枚、京都五山に銀100枚ずつ、吉田兼見に銀50枚を送る。また,京都市民には地子の免除を触れる。
 天正10年6月9日、羽柴秀吉,浅野長政に姫路城の留守居を命じ,姫路を出発し,明石に向かう。
 天正10年6月9日、筒井順慶が、河内への出陣を中止し、大和郡山城に米・塩などを入れる。
 天正10年6月9日、滝川一益、本能寺の変が発生したことを知る。
 天正10年6月9日夜中、羽柴秀吉,兵庫(神戸市)に到着。
 天正10年6月10日、徳川家康が本多信俊を甲斐にやって一揆を煽動?
 天正10年6月10日、明智光秀が京都を発ち,八幡に近い洞ヶ峠に陣して,筒井順慶の参陣を待ちながら,河内に兵を出す。
 天正10年6月11日、羽柴秀吉が摂津尼ヶ崎に着陣。
 天正10年6月11日、羽柴秀吉が筒井順慶に宛てて『別儀ない』旨の書状と誓詞を送り、筒井順慶も『二心無い』旨の誓詞を差し出す。
 天正10年6月12日、明智光秀が洞ヶ峠の陣を払い、下鳥羽に陣を移す。
 天正10年6月12日、羽柴秀吉が富田(大阪府高槻市)に来着。織田信孝,丹羽長秀(以上,大阪在城),伊丹城主池田恒興,子元助らに着陣を通知し,参陣を求める。
 天正10年6月12日、池田恒興(織田信長の乳母兄弟)・元助父子が羽柴秀吉の求めに応じ,尼ヶ崎に参陣。
 天正10年6月12日、筒井順慶が大和郡山城に大和国中の与力の衆を集めて、起請文を取る。
 天正10年6月12日、勝竜寺城の西で足軽が遭遇し、鉄砲戦あり。(「兼見卿記」より)
 天正10年6月12日、高山(右近)重友が、山崎に入り関門を占拠。
 天正10年6月12日、中川清秀が、山崎の山の手に向かい、天王山を占拠。
 天正10年6月13日、丹羽長秀,織田信孝が羽柴秀吉の要求(6/12)に応えて,富田(大阪府高槻市)にて,羽柴秀吉に参会。
 天正10年6月13日午後4時頃?、山崎の合戦、開戦。山崎は雨天。
 天正10年6月13日、山崎の合戦において池田恒興隊(羽柴方)、右翼川の手側より進出。特に加藤光泰隊の進出がめざましい。//右翼、中央の進出により、左翼も有利に展開。
 天正10年6月13日、明智光秀、山崎の合戦にて総敗軍となり、勝竜寺城に退却。//伊勢貞興、諏訪飛騨守、御牧三左衛門らの旧幕府衆が討死。
 天正10年6月13日、明智光秀、曇天の闇夜に乗じて、勝竜寺城を脱出。//溝尾庄兵衛ら、近臣五~六名程度を従える。
 天正10年6月13日、明智光秀、淀川の右岸を久我縄手から伏見方面へと向かい、大亀谷を過ぎて、桃山北方の鞍部を東へ越えて、小栗栖に出たところを土民に襲われ、深手を得て、自害。//溝尾庄兵衛に後事を託す。庄兵衛は、光秀を介錯し、首を鞍覆に包んで、藪中の溝に隠して、坂本に走った。
 天正10年6月13日夜、明智弥兵次秀満(光秀の女婿)が安土城にて明智光秀の敗北を知る。
 天正10年6月?日、柴田勝家,羽柴秀吉が明智光秀を破ったことを知り,兵を帰す。//このとき,佐々成政は越中富山で越中の抑え。加賀尾山城主佐久間信盛,能登七尾城主前田利家にもおのおのの居城に戻ることを命じ,地盤を固めさせる。柴田軍の先鋒は柴田勝政,佐久間安次ら。
 天正10年6月14日未明?、明智弥兵次秀満(光秀の女婿)、安土城を発して、坂本へと向かう。
 天正10年6月14日、明智弥兵次秀満、坂本への帰途、堀秀政(秀吉方の先鋒)と遭遇するも、戦闘を避け、無事、坂本城に入城。//有名な明智秀満の湖水渡り。
 天正10年6月14日、堀秀政、坂本城を囲む。
 天正10年6月14日、明智弥兵次秀満、堀秀政の家老堀直政に宛てて、明智光秀所有の国行の刀、吉光の脇差し、虚堂の墨跡など天下の名物を荷造りし、目録を添えて譲渡。//この際、光秀秘蔵の郷義弘(ごうのよしひろ)の脇差しが目録にないのをいぶかしんだ直政が秀満に問いただし、それは光秀が命もろとも秘蔵した品であるから、死出の山で光秀に渡すために秀満自らが腹に刺すと返答。
 天正10年6月14日、明智弥兵次秀満、自害。//明智光秀の妻子を刺し殺し、自分の妻を刺殺、自らは切腹し、硝煙に火を放つ。
 天正10年6月14日、織田信孝、津田越前入道を使者として吉田兼見のところに明智光秀とのやりとりの実状を報告するよう命じる。
 天正10年6月14日、徳川家康、兵を率いて、尾張の鳴海に出兵。
 天正10年、明智弥平次秀満の父親(63歳),秀満自害(6/14)ののちまもなく丹波横山で捕らえられ,粟田口で張付。
 天正10年6月15日、織田信雄が安土城に火を放ち、安土城が焼失。
 天正10年6月16日、徳川家康が酒井忠次を津島まで前進させる。
 天正10年6月18日、徳川家康が甲斐の一揆勢を煽動し、川尻秀隆を討死させる。
 天正10年6月19日、羽柴秀吉が徳川家康に明智光秀を倒したことを知らせる。
 天正10年6月21日、徳川家康、羽柴秀吉が明智光秀を倒したことを知り、軍を返す。
 天正10年6月23日、能登石動山の僧徒らが元の能登国守護畠山氏の旧臣温井備前守,三宅備後守らを招き入れ,上杉氏の兵とともに石動山近傍の荒山に塁を築く。
 天正10年6月27日、織田信長の跡目を決める清洲会議開催。
 天正10年7月18日、吉川元春、秀吉へ天下静謐の祝詞として、太刀(信国)を贈呈。//秀吉に、毛利家との外交の窓口は安国寺恵瓊が担当することを確認
 天正10年7月18日、滝川一益、北条氏の兵と戦う。(神流川の戦い、~7/19日)//新附の上州兵に戦意が無く、滝川一益敗退。
 天正10年7月26日、柴田勝家,佐久間盛政に命じて,石動山を攻め,石動山の僧徒の乱を鎮圧。//『荒山合戦記』,『太閤記』の6/26とあるが、誤りか?
 天正10年10月3日、フロイスが坂本城落城の際,明智の二子はそこで死んだこと,長子は13歳で欧州の王侯とも見えるような優美な人であったという書状を出す。
 天正10年12月、吉川元春が隠居。吉川元長が吉川家当主となる。

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