磁場の井戸:第五章 死神(五)/長編歴史小説





 恵瓊は蛙ヶ鼻の秀吉本陣に戻り、宗治が切腹を承諾した旨を知らせた。



「ありがたや。よう致してくれた。恵瓊殿、礼を申すぞ。」



秀吉は恵瓊の手を取らんばかりにして喜んだ。宗治が切腹を承諾したことによって、秀吉は勝利の証を手にした。「勝利」という大義名分を持って軍を帰すことができるのである。



 恵瓊は秀吉にこのことを告げると、席を暖める暇もなく、日差山の隆景の許へと向かった。



 隆景は日差山の本陣で、陣笠を心細げに掲げた小船が高松城の湖水を渡っていくのを黙って見送っていた。



(恵瓊が乗っている。)



隆景はすぐにこの船が進むことの意味を悟った。



(この船は毛利家にとっては安寧への舵取役となるかもしれぬが、…)



隆景はそのことと恵瓊という僧の辣腕を認めざるを得なかった。これ以外に、この戦の完結を宣言する方法は無いのかもしれない。ただ、一個の男として、宗治の命を絶つことは、身を切られるほどに辛かった。



(恵瓊はこれで毛利の信を失った。)



隆景は自分と兄元春が、今後、安国寺恵瓊と言う禅僧を信じていけなくなる事を確信した。恵瓊は独断で宗治の命をもらい受けに行った。その行為は、天下太平を願ったための情熱の噴出と見られなくも無い。ただ、恵瓊は毛利家をある意味裏切った事は確かである。



 秀吉の陣を辞した後、急ぎ日差山の陣に戻った恵瓊は、時をおくことなく、少し俯き加減で隆景の前に現れた。



「隆景様、拙僧先刻、高松城へ出向き、城主清水宗治殿と直に談じてまいりました。」



隆景は鋭い目線を恵瓊に放った。普段は柔和な隆景の表情が、このときばかりは憤りの表情に満ちているように、恵瓊には感じられた。しかし、隆景は、口調に感情の棘を表さずに恵瓊に尋ねた。



「宗治は自害すると言ったか。」



問うというよりは自分の予感を確認するような口調だった。



「清水殿は城兵の為、毛利家の為、命を差し出す御覚悟でございました。」



「そうか。」



隆景は恵瓊に答えると、湖面に僅かばかり顔を出した高松城に視線を移した。隆景は暫くの間茫然と湖水に視線を泳がせていた。



「すでに決まった事だ、諦めるしかなかろう。」



恵瓊を責めるでも無く、呟いた。



 恵瓊が退席した後、このことを兄元春に、書状をもって、知らせた。元春も、もはや決まった事にとやかくは申し立てなかった。黙って書状を差し出した傍らの父の表情を見て、元長も文句を言う事ができなかった。ただ、吉川父子の間には恵瓊に対する今までの生理的な嫌悪感に加えて、拭い様の無い不信感が溶けることのない万年雪のように残ることとなった。

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