磁場の井戸:第五章 死神(四)/長編歴史小説





「隆景殿は、宗治殿の首だけは、弓矢の意地に賭けても、渡す事はできぬと仰せか。」



秀吉は恵瓊に念を押すように言った。



「如何にも、領地の割譲に関しては、異存はございませんが、殊、清水宗治の命に関しては、不承知でございます。」



恵瓊は毛利家の使僧の立場として、断固とした口調で言った。



「毛利家として譲り難い事は重々承知しておりますが、当方としても勝利の証をいただけねば、味方に対して陣を退く名目が立ちませぬ。宗治殿の首を両軍の士卒の目に入れ、双方勝敗を明らかにせねば、両軍の士卒が承服いたしかねましょう。それでは、主人信長の弔い合戦の前に我が軍が崩壊いたすは必定でござる。」



黒田孝高の語調は悲嘆に暮れているようにも聞こえた。一瞬の沈黙の後、絶妙とも言える間を置いて、秀吉が続けた。



「恵瓊殿、何か策はござらんか。」



秀吉と孝高には思うところがあったが、それをおくびにもださず、恵瓊に対して哀願するように言った。秀吉の口調の中には、



(この事が成れば、恵瓊殿には然るべき褒美を差し出そう。)



という、現世利益的な脂ぎった感情も多分に含まれていた。



「無い事はござらぬが。」



恵瓊は自らの描いた策を、自慢げな表情ながらも、控えめな口調で疲労した。



(恵瓊自身が独断で高松城へ向かい、宗治に直談判し、自害を促す。)



(毛利家のためである。)



と説得する。宗治は、当代に稀な義人であるとの噂が高く、また、毛利家に大恩を感じているはずだった。「毛利家のため」という言葉は、宗治の心に鋭利な刃物をあてがうようなものである。必ずや宗治は命を差し出すであろうと、恵瓊は語った。



 恵瓊の策は、秀吉、孝高の考えと割符を合わせるかの様に合致した。しかし、秀吉はいま閃いたかのように恵瓊の策に感動した。正確に言うと、感動した振りをした。孝高も恵瓊の策にさも感心したように、



「上策にございます。なれば、早速、高松城に出向いていただけませぬか。」



と、せきたてるように恵瓊の出座を促した。孝高は、ここで間をおいて、この策が毛利の両川に漏れることを恐れた。為に、恵瓊を少しでも速く高松城に出向かせるのが得策だと心得ていた。煽て上げられた恵瓊は、両人から認められたことを愚直なほどに喜び、



「支度さえ整えば、早速にも高松城に出張りましょう。」



と応じた。恵瓊は浮き立つ心を抑えながら腰を上げた。



恵瓊が席を立った後、秀吉は痩せた膝を掌で叩くような仕草をしながら官兵衛孝高に言った。



「官兵衛、恵瓊は嵌ったな。」



「如何にも。」



孝高は答えた。秀吉と孝高からは、恵瓊の外交に対する姿勢がその僧衣から透けているように見てとれた。恵瓊には毛利家への忠誠と言うものが希薄で、恵瓊なる器から自らの才を現さんとする欲望という液体が溢れ出していることを、二人は敏感に感じとっていた。秀吉と孝高は、恵瓊のその部分を擽る様にして、煽て上げることで、自分たちの道具にしたてあげた。



「官兵、恵瓊は便利な男だな。」



秀吉はなんとなく呟いていた。孝高は莞爾とした面持ちのまま、秀吉に微笑だけを返した。







 この朝、毎日のように繰り返されてきた砲声がやみ、高松城の周囲に平素のような静寂が訪れていた。



 その静謐の中、秀吉が調えた小舟の上で恵瓊はその僧衣に包まれた身を揺られていた。舳先に棹が立てられ、その棹の先に軍使の印である黒い漆塗りの陣笠が申し訳なさそうな風情で夏の微風を受けて揺られている。



 恵瓊はゆっくりと近づく高松城の中で、未だ水没を免れている屋根や櫓の群に目を凝らした。



(高松はかくも美しい城であったか。)



水面から亀が頭だけを除かしているようにも見えるその結構は、その使命を失う寸前に城という物質に宿る魂魄が最後の時を心得て、美しい輝きを放っているようで、恵瓊にそんな感慨を抱かせた。冷涼な風が吹きぬける度、湖の水面に風の跡を慕う小波が立った。その小波は、湖面に映る高松城の姿を微かに擾乱しながら、初夏の早朝独特の薄く白みがかった陽光を受けて、柔らかい輝きを跳ね返し、涼風の通り道を恵瓊に教えた。風を見つける度、恵瓊の心の高ぶりは鎮まった。



 高松城の将兵達も陣笠を翳したこの小船に気付き、多くの者がかろうじて水没を免れている小屋の屋根に登り、城に近づく小舟を望見していた。恵瓊は本丸の櫓の上に一人の男がいるのを見つけた。宗治である。傍らで、旧知の末近信賀が、伸び上がる様にして、恵瓊の方を眺めていた。



「あれは安国寺の恵瓊殿かな。」



宗治は空の色を吸い込むようにして青く、そして静かな湖面の上を、滑る様にその静けさを乱し、航跡を描きながら此方に進む一艘の小船の上の坊主頭に注意を注ぎながら、恵瓊の事を知っているであろう末近信賀に尋ねた。



「あの鉢開きの坊主頭、如何にも恵瓊殿に間違いございますまい。」



信賀は答えた。



(恵瓊殿が軍使としてこの城に足を運ぶと言う事は、隆景様、和睦を決意なされたか。)



宗治は恵瓊の来意を薄々と察した。末近信賀の頭にも宗治と同様に和睦の二文字が浮かんでいた。そして、ここまで一ヶ月余り、この高松城で豊富過ぎる水に苦しめられた城兵一同が、個人的な濃淡は別にして、小舟と僧と黒い陣笠に和睦という意味合いの言葉を連想していた。



 宗治と信賀は連れ立って、恵瓊を迎えるために櫓を降りた。



 恵瓊の表情がはっきりと見えるまでに小船が近づいた。恵瓊は宗治に向かい、黙礼した。小船が高松城に到着すると、高市允が恵瓊に手を差し伸べ、下船を補助した。



「恵瓊殿、遠路はるばるの御使い、御苦労でござる。」



宗治は恵瓊に向かって慇懃に言った。



「この度は高松城の死守、小早川様、吉川様、そして毛利御本家とも感服しております。」



恵瓊は、毛利家総帥輝元、そして両川の思いを、殊更、代弁するかのような口調で言った。



 小船が舫をとると、すぐに、宗治と信賀は恵瓊を伴い高松城書院に向かった。床の下にはすでに高松城を取り巻く湖水の水が満ち、時折、波が床を支持する柱にぶつかって、小さく砕ける音が耳についた。注意して聞いていると、その音は何か周期的な旋律で宗治と恵瓊達のいるこの部屋に流れているようだった。



「して、恵瓊殿、軍使の趣や如何に。」



宗治は単刀直入に恵瓊に尋ねた。波の奏でる微妙な調子に酔っていた恵瓊は思い出したように、軍使の旨を伝え始めた。



「和睦でございます。」



この言葉を聞いても、宗治の表情には、一点の変化も無かった。小船の上に掲げられた陣笠を見たとき、既に予期できたことだった。



「毛利家は伯耆半国、そして、備中は足守川以東を割譲する事と相成りました。」



「織田家と毛利家との間にここまでの実力差ができてしまった昨今では、その条件も致し方あるまい。それだけの条件で織田方が納得した事のほうが、不思議にも思えるな。」



和睦の第一条件となる領土問題については、その条件が自分の予想よりも少ないことを感じ、宗治はそこに少なからぬ疑問を持ったが、さらに続く恵瓊の言葉に耳を傾けた。



「さらに一つ。足守川以東ということは、当然、高松城は織田方に譲る事と相成ります。」



恵瓊は分かりきった事を口にした。ここに来て、恵瓊は自分の口から本題を言い出すことに躊躇いを感じ始めていた。暫くの間、意味のない沈黙が続いた。宗治は、言葉に躊躇する恵瓊の様子から彼が言おうとしていることを感じ取った。



(恵瓊殿は最も言いにくい事を言おうとしている。)



頭の中で考えていたことを言葉にしようとするが、京都五山の一つ東福寺の西堂恵瓊をもってしても、今、宗治を目の前にして、それを切り出すための文句を選び出す事ができなかった。



「恵瓊殿、もう一つの条件とは。」



末近信賀には恵瓊の心を察する事ができなかった。信賀の問いを引き取り、恵瓊の言葉を代弁するように、際どい暗喩で宗治が言った。



「それで、城兵達の命はすべうしていただけるのであろうな。」



「むろん、城兵の命は全て許すという条件でございます。」



恵瓊はそう返答することで、もう一つの和睦の条件を宗治に伝えようとした。宗治も恵瓊の返答に自分の予想が外れていないことを悟った。



「では、儂の命、毛利家の安泰のための礎にしていただこう。儂の素首が毛利の御家のために役立つのであれば、そして、ここまで辛苦を共にした城兵達の命に代えることができるのならば、喜んで差し出そう。」



宗治は、他人事のように、自らの口で、自らの命を絶つ事を淡々と宣言した。



 信賀は「あっ」と言う声を飲み込んだ。



(恵瓊はそれを言いに来たのだ。)



宗治に死を宣告する死神として、恵瓊はこの部屋に来たのである。信賀は恵瓊を詰りたい気持ちを懸命に抑えた。恵瓊がここに来ると言う事は、当然、両川と毛利本家も承知の上の話であろう。そうでなければならないはずだった。ただ、主人小早川隆景がそんな事を考える人間には思えなかったし、信賀にとって隆景はそういう人間であってはならなかった。信賀は疑問が胸中に広がり、満ちていくのを抑えかね、



「このことは隆景も承知の上のことでござるか。」



と鋭い語気で恵瓊に尋ねた。恵瓊は再び沈黙した。



(無論、承知の事でございます。)



と言いたかったが、隆景を良く知る信賀に問い詰められた場合、自分が逃げ場を失い、信賀の怒りを買って、この話が拗れることを恐れ、信賀の詰問から言い逃れることを諦めた。



「いえ、このことは、愚僧の独断でございます。」



恵瓊は波飛沫が聞こえる書院の床に目を落とした。そして、再び顔を上げた。その瞬間、恵瓊の顔は、天下という巨大な物体に対する情念に捕らわれ、先刻までの冷静な表情からは想像できぬほどに紅潮していた。その情念は自然と恵瓊の声を大きなものにさせていた。



「しかし、毛利家の安泰の為、ひいては天下泰平のためには宗治殿の御命が必要なのでございます。」



「恵瓊殿、それは専横ではござらんか。いくら、貴僧でも、主人の許可も得ず、毛利家の武将である宗治殿の命を欲しいなどと言うのは、…。」



信賀は恵瓊を面罵した。そのとき、激する信賀を制して、宗治が穏やかな語調で言った。既に、宗治の胸中は決まっていた。



「信賀殿、良いのでござる。我が命が毛利家の御役に立つならば、これに優る喜びはございますまい。」



旗色の悪くなっていた恵瓊は、宗治の言葉に力を得た。



「宗治殿、拙僧、非力ながら毛利家の安泰に持ち得る限りの力を持って当たります。決して、宗治殿の命を無駄にするような事はいたしません。」



宗治は静かに頷いた。戦陣の中で一心不乱に刀槍を振い、無心の中で武士としての一命を落す事を望んでいた宗治だったが、その望みは叶わぬまでも、今は全てが終わったと言うぼんやりとした安堵感に体中が包まれているようだった。



 宗治は、それ以上、恵瓊に何も尋ねようとはしなかった。恵瓊を問い詰めていけば、この不自然すぎる突然の和睦の真相を突き止められるかもしれない。しかし、問い詰めたところで、宗治は自決を翻意するつもりはなかった。この和睦の裏側を知るほどに、自分の死が汚れていくような気がした。宗治は無垢な気持ちのまま、毛利家と隆景の為だけに死んでいくことを望み、恵瓊に何も聞こうとはしなかった。



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