磁場の井戸:第六章 磁力(一)/長編歴史小説





第六章 磁力







 宗治は城兵達に戦が終わった事を触れるよう高市允に命じ、自らも開城と現世との離別のための準備を始めた。そんな宗治のもとに、末近信賀が床板を蹴りつけるような激しい足取りで訪れた。



「儂も宗治殿に御供いたします。」



陽に焼けた赤銅色の顔をさらに血潮で赤らめ、懇願するような面差しで信賀が言った。



「信賀殿、有り難く思うが、お気持ちだけで十分でござる。儂は皆の命を助けるために自害するのでござる。信賀殿が自害すれば、儂の志が無になりましょう。」



宗治は自分の死の意味が薄れることを恐れた。そして、自分以外の人間が不必要に流血することを嫌った。



「いや、儂はこの高松城に入った時に、命を捨てる覚悟でござった。もし、高松城が落城し、城兵一同討死するときは、供に屍となり、もし宗治殿が織田方に寝返ろうとしたならば、貴殿と刺し違えるつもりであった。今、和睦が成ったからと言って、一度捨てた命、今更、未練はござらん。それに、宗治殿だけを死なせて、軍監として赴いた儂だけがおめおめと生きて戻れはいたしません。」



信賀の言葉が終わったまさにそのとき、和睦と城主宗治の切腹を聞いた月清が、宗治の姿を求めて、部屋に入ってきた。興奮して声を荒げた信賀の言葉は部屋の外にも十分聞こえていた。



「宗治殿、拙僧も供に行かしていただきますぞ。」



月清は、激しく詰め寄る信賀とは全く対照的に静かに言った。その口振りは、宗治とともに死ぬ事が当然であるという信念に満ちていた。



「月清殿まで何を、地獄に行くのは儂一人で十分でござる。御両所ともわたしの分を生き、毛利家をお守り下さい。」



「いや、わたしは清水家の嫡男として生まれながら、生来軟弱で戦を嫌い、好んで僧籍へ身を投じた。それができたのも幼少より雄有り、武を好んだお前がいたからだ。本来であれば、わたしが清水家を継ぎ、そして、ここで命を絶つべき立場にあったはず。その事までも、宗治殿に身代わりになってもらっては罰が当たろう。ここまで奔放に生きることを許してくれたそなたへのせめてもの償いに、わたしも供に死なせていただきたい。宗治殿、もしお前がこの願いを拒んだとしても、わたしはお前を追って死ぬつもりだ。どちらにしても死ぬのであれば、供に賑やかに死ぬほうが面白いではないか。」



月清はこれまで自分の身代わりとなって現世の苦悩を一身に受けてきた宗治に、僅かばかりの報謝を望んだ。



「しかし、…。」



宗治は言葉を継ごうとしたが、供に死のうと言う二人の志に胸を打たれ、目頭が熱くなるのを抑えられなかった。二人は宗治と同様、『義』という名のもとに死を選ぼうとしている。宗治も己の信ずるところに対して、他者の行為を留める事はできなかった。



 三人で自害することを決めた後、宗治は月清の息子右衛門尉を呼んだ。



「右衛門尉、我等三人は城兵の命と毛利家の安寧、そして武士としての意地のために腹を切る事と相成った。これは、小早川様の預かり知らぬ話ゆえ、お主にこれまでの戦と我々の自決の様子を伝えてもらいたい。」



右衛門尉は自分も供に死ぬ事を求めて、なかなかその場を去ろうとしなかった。しかし、三人は前途有るこの若者に死出の旅路の供をしてもらおうとは、爪の先ほども考えていなかった。



「右衛門尉、頼む。叔父の最後の我侭を聞いてくれ。生きて我等の戦いと死に様を小早川様に、そして後世に語り継いで欲しいのだ。」



宗治は右衛門尉に繰り返し懇願した。宗治の強い懇願に右衛門尉は抗うことだけは諦めざるを得なかった。



(まずは小早川様に言伝を伝えよう。その後、叔父達の後を追って腹を切れば良い。)



右衛門尉はあくまでも三人と供に死ぬという信念を捨ててはいなかった。宗治も右衛門尉の気持ちは良くわかっていたし、僧籍に有る兄の代わりに『名こそ惜しけれ』と養育してきたつもりである。その薫陶が右衛門尉の身体に染み込んでいるならば、宗治達と共に死を選ぶのは当然のことだと分かっていた。だが、隆景の陣に赴く事によって、そこは隆景が上手く取り計らい、追腹を切る事を止めてくれると信じた。



 右衛門尉が去った後、三人は無言で向き合っていた。三人の表情には死に向かう陰鬱な表情は微塵も見えなかった。死を決した三人は澄み切った瞳で水に浸された庭を漠然と眺めていた。庭の隅で水面にほんの少しだけ頭をのぞかせた石があった。そこには、この戦いを冷ややかに見つめ続けた苔が眩しすぎることのない柔らかな緑色の輝きを放っていた。三人がその清涼な緑を見つめていたとき、静かな時の流れを遮るように宗治を呼ぶ声が聞こえた。



「白井様が急ぎお会いしたいと。」



白井治嘉、宗治とともに現在まで数々の戦場に赴き、数多の武功を上げてきた老臣である。高松城二の丸の守将としてこの籠城に加わり、四月二七日の戦で右の股に傷を受けたにもかかわらず、その後も傷を押して部署を預かり、城兵たちを叱咤してきた古強者だった。



(何事か。)



宗治は、戦が終焉を迎えた今、治嘉が自分を呼ぶ事の意味を察しかねた。



 心中に漠然とした不安が滲むの感じながらも、何事か分からぬまま、宗治は治嘉の待つ二の丸の櫓へと足を急がせた。そのほとんどが水没した二の丸の櫓の上で治嘉は完爾として宗治を待ち続けていた。治嘉の表情を一目見た宗治は、胸中の正鵠に冷水の一滴が的中したように身を震わせた。治嘉の表情は浮き世の穢れの一切を洗い流したかのように清廉だった。



「殿、遅うござったな。」



治嘉は掠れた声で言った。宗治は立ちつくしていた。治嘉は真紅の液体に彩られた板の上で座したまま、宗治を迎えた。濃厚な血の臭いが櫓の周囲を包んでいた。宗治は言葉を失ったまま、治嘉を見つめ続けていた。



「殿が御自害なさると聞き、この老骨が試しに腹を切ってみましたが、ほれ見ての通り造作もないことにございます。」



苦しげに息をしながら、治嘉は、赤く口を開いた腹を宗治に見えるように一気に袂をくつろげた。宗治は自分の膝が自らの意志に反して震えてくるのを感じ、ともすれば溢れそうになる涙を必死に堪えた。



「早まったことを。」



それだけを言葉にするのが精一杯だった。宗治はこの忠臣に残された自分の家族の事を頼もうと考えていた。それほどの信頼を宗治は治嘉に寄せていた。しかし、既に治嘉の命の炎は消えようとしている。



「殿、老いぼれの最後の願いにございます。冥途の土産に、それなる刀でこの首を落として下され。」



消え入りそうな治嘉の言葉に導かれるまま、宗治は視線を動かした。太刀が櫓の欄干に立てかけられていた。宗治は手を伸ばしてそれをとり、鞘を払った。曇りのない刀身が陽光を跳ね返し、宗治は思わず目を細めた。そして、力無く首を項垂れる治嘉の斜め後ろに回り、太刀を上段に構えた。



「参るぞ。」



嗚咽を漏らすことを恐れ、宗治は短く言った。



「忝ない。」



聞き取れぬほどの声で、治嘉が答えた。その応答が終わるや宗治は、渾身の力を太刀に集中させて、上段から一閃させた。



 宗治は治嘉の骸に合掌した。合掌しながら頭を垂れた。知らぬ間に合掌したままの手が額に触れていた。宗治はそのまま肩を細かく震わせ続けた。



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