磁場の井戸:第四章 対岸(九)/長編歴史小説

 陽が中天を越えた頃、岩崎山に陣を布いていた山陰衆が陣貝の勇ましい音と共に、南東の方向に向かって続々と移動を始めた。これを見た日差山の元春、隆景も兜の尾を締め、秀吉が本隊を繰り出した際の備えとして、日差山の山陽勢に体勢を整えるよう命じた。
(もし、秀吉が本隊を動かせば、日差山から一撃を。)
秀吉の本陣が動き、拮抗したこの状態が崩れたときこそ、高松城の水牢の鍵をこじあける唯一の好機であり、それ以外に高松城を水牢の中から救い出す手だてはなかった。
 吉川元長、経言兄弟は一万の軍勢を率いて、加茂の手前七、八町のところで、進軍を止め、陣を整えた。
「すわ、後詰か。」
加茂城の麓に滞陣する織田勢の間に緊張が走り、最後の城攻めに向けて、加茂城に備えていた陣形が柔軟な動きでその形を変えた。
 そのとき、既に、秀吉の命を受けた二騎の伝令が加茂に向けて、疾走していた。
 日差山の頂上付近で、元春と隆景は、蛙ヶ鼻の秀吉の陣から二騎の伝令が加茂城の方角へ向けて一目散に駆けていくのを見つめていた。両人とも、この使者がこの戦の展開を握って疾駆していることを直感し、その行方を凝視した。
 伝令は太い筆で一筋ひいたようにも見える白みを帯びた褐色の道を、砂埃を巻き上げながら、加茂城の麓で居座る織田勢の群兵の中に吸い込まれていった。それから時を経ず、無数の織田勢の旗が粛々と移動を始めた。
元春と隆景は霞んだようにぼんやりと見える兵馬の移動を遠望しながら、それが退却を意味している事を悟った。
「またもや、秀吉は正面からの戦を避けましたな。」
隆景は諦めたような口調で、傍らに立っている元春に言った。元春は拳を握り締め、口惜しそうな表情で、粛々と陣を払う織田勢を睨みつけていた。
「真っ向勝負なら、勝機はあったやも知れぬが、秀吉めが退却するのでは、手の出しようが無い。あの様子では、殿軍の手配りも万全じゃ。我が方が討って出れば、手痛い反撃を喰らう事になろう。」
元春は苦薬を飲み下したような渋い表情で呟いた。一度でも、織田勢と弓矢を交え、これまでの戦で思い知らす事ができなかった山陰兵の、そして、毛利兵の頸悍を、羽柴秀吉とそれに率いられた織田勢の心に刻みつけなければ、元春としては遙々備中まで出てきた意味がなかった。そして、元春は、高松城と義人として愛すべき宗治という男をこの水の牢獄から助け出してやりたいと切実に思った。
「何とかあの長い堤に大穴を開けて水を抜いてやらねば、城兵達は溺れ死ぬぞ。早く策を立てねばなるまい。なあ、隆景。」
元春は隆景に決戦を促すような口調で言った。両人はこの備中に着陣して以来、繰り返し、
「領地割譲を条件とした和睦。」
が毛利家にとって最善の道であることを何度も確認し、その度ごとに元春も同意していた。ただ、
(このまま、手をこまねいて、みすみす高松城を落城させては中国の雄、毛利の信に関わる。)
ということが、喉元に刺さった小骨のように心中に引っかかっていた。毛利の信を繋ぐためには、高松城を囲む堤を決壊させるための努力を世間に対して公表しておく必要があり、
そのためには、多少の犠牲を厭うことなく、秀吉の堅陣を武力をもって破壊しよういう意志をみせなければならなかった。しかし、この戦いは毛利対織田の前哨戦に過ぎず、今、弱者の立場にある毛利家としては将来に備えて兵力を温存しておきたいというのが、両川の偽らざる気持ちだった。二人はこの二相背反を解く起死回生の策を無言で探し続けていた。
 元長、経言の率いた山陰勢一万と加茂城の城兵は、鋭鋒を挫かれ、既に岩崎山の麓まで戻りつつあった。兵達のもつ旗が地面に長い影を落としている。西の空は赤く染まり始め、高松城の湖水に空の朱色が柔らかく溶け込んでいた。鮮やかな茜色の斜陽が隆景の目には高松城と自分を含む毛利家の命運を暗示しているかの如く映った。
西の空の茜色を追いかけるように、東の空から灰色の闇が迫ってきた。灰色と茜色のちょうど境界の当たりに高松城が浮かんでいる。元春と隆景は朱と灰の二つの色彩が混在しているあたりをじっと眺めながら、手探りで暗闇の中の道を探すようにしながら、高松城を水の牢獄から救い出す手だてを求めていた。

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