950(1567)_==永禄10年==(最新版)

^^あくまでも司空流の「こうかも」年表ですので、誤っている可能性があります。^^
^^ご利用に際しては、解説・注意をご確認の上、各人で十分に史実をご確認ください^^


 永禄10年(1567)1月21日、織田信長が、嫡子信忠の室に武田信玄の息女お松を迎えることを約束する。
 永禄10年(1567)、織田信長の妹お市の方が、浅井長政の近江小谷城に輿入れ。
 永禄10年(1567)2月、毛利勢が出雲尼子攻略を終え、安芸吉田郡山城に凱旋
 永禄10年(1567)春頃、織田信長が滝川一益を北伊勢に派遣。
 永禄10年(1567)、毛利氏が播磨進出を企て、尼子方の播磨上月城を攻め落とす。
 永禄10年(1567)2月12日、下野国唐沢山城城主佐野昌綱が、上杉輝虎に背く。//上杉輝虎は、佐竹義重、小山秀綱、太田資正に参陣を促し、唐沢山城を攻める。//佐竹義重はこの要請に応じず、結城義親の岩城白河城を攻めて、武田信玄に内通。//上杉輝虎は、佐竹義重との連携を絶ち、結城義親と連携して白川城救援を承諾。
 永禄10年2月16日、三好義継が、一族の三好長逸ら三人衆に実権を握られていることを恨み、河内の高屋城を抜け出て、堺にいる松永久秀のもとに走る。
 永禄10年(1567)2月24日、足利義昭が、再度、上杉謙信に対し、武田氏・北条氏と和睦し、京都回復を要請。
 永禄10年2月28日、本願寺顕如が、能登守護の畠山義継から加賀門徒の助けを借りて能登に戻りたい旨の書状が届いたのに対して、他国への介入は遠慮したい旨を返答。
 永禄10年3月、足利義昭,毛利元就に帰洛のための参陣を依頼する。
 永禄10年3月18日、越前の朝倉方が、朝倉に反逆して本荘城(福井県坂井郡芦原町本荘)に拠った堀江景忠を討伐するために攻撃した。//高田専修寺派の真孝が仲介して、景忠を追放することで落着。
 永禄10年4月6日、厩橋城城代北条高広が、上杉輝虎に背き、北条氏康に通じる。//上杉輝虎は、沼田城城将松本景繁、小中大蔵少輔、新発田右衛門大夫に北条高広討伐を命じる。
 永禄10年5月16日、上杉輝虎が、色部勝長を唐沢山城城将に任命し、春日山城への帰路につく。
 永禄10年6月5日、本願寺顕如が、越前朝倉氏に反逆し、能登に退去した堀江景忠に対して、その働きを謝すとともに、今後も金沢坊の下間頼総とともに粉骨して力を尽くしてほしい旨の書状と褒美として太刀、馬、金子千両を贈る。//3月18日参照。
 永禄10年7月、三村元親が備前の明善寺城に夜襲をかける。不意打ちされた宇喜多軍は50~60人の守備兵を討たれ、城から撤退する。(Wiki)
 永禄10年、宇喜多直家が備前国上道郡沢田村(現:岡山県岡山市中区沢田)付近で行われた明善寺の戦いで備中国を掌握し備前国制覇も目論んでいた三村元親を破り、浦上宗景の被官のままではあったが、備前国の支配力を強化する。-浦上宗景は備前から三村・毛利勢力を一掃できたが、宇喜多直家の勢力が拡大した。-三村勢が総崩れとなったことから「明善寺崩れ」とも呼ばれる。(Wiki)
 永禄10年、浦上宗景が浦上惣領家の誠宗を暗殺する。(Wiki)
 永禄10年7月1日、足利義昭が、越前に滞在中のところ、美濃、尾張、三河等の兵を率いて京都に入ろうとし、花ヶ前頼慶を通じて、上杉輝虎に兵糧などの援助を求めるとともに、武田・北条両氏と速やかに和睦し、上京するよう要請。
 永禄10年8月1日、織田信長が、美濃の稲葉山城に突然押し寄せ、城下の井ノ口の町に火を放つ。
 永禄10年8月2日、織田信長が,美濃の稲葉山城を落とし,斎藤竜興を追い,美濃を平定。//斎藤竜興は、その伯父長井隼人らとともに近江に逃れ、のちに三好氏を頼る。伊勢長島に逃れたとの説もあり。
 永禄10年8月、織田信長が北伊勢に出兵。
 永禄10年9月26日、本願寺顕如の次子の佐超(4歳)が、院家の興正寺証秀の養嗣子となる。
 永禄10年、松永久秀が、三好義継を擁して奈良の多聞山城で挙兵。//三好三人衆がこれを攻め、大和の筒井順慶、摂津の池田氏・伊丹氏、播磨の別所氏などが加わる。//久秀には根来衆が味方。
 永禄10年10月10日、松永久秀が、三好三人衆との戦いにおいて、三好方が本陣を布く東大寺大仏殿を襲い、焼き払う。//このちょうど10年後、松永久秀は織田信長に謀叛し、自害?
 永禄10年10月19日、武田信玄の嫡男義信が自害。//義信の母は本願寺顕如の妻の姉。義信の妻は今川氏真の娘だったが、このあと駿府に送り返される。//これにより武田氏と今川氏の関係が冷え、北条を加えた三国同盟は崩壊。
 永禄10年10月、下旬、顕誓(浄土真宗、蓮如の孫で石山本願寺御影堂鎰取役の長老)が、放流の相違という名目で蟄居を命じられる。//顕誓は、顕如のやり方に不安を感じ、諫言していた。
 永禄10年11月3日、本願寺顕如が、足利義秋が金ヶ崎で朝倉と本願寺の調停を進め、顕如に内書を出して条件を示したことに対し、義秋の側近三淵晴員に「加越の平和について恐縮し、和睦が成立すれば本願寺方は粗略にしない」旨の返書を出す。
 永禄10年11月7日、本願寺顕如が、織田信長に対して美濃平定と上洛について祝詞を書き、太刀、馬、唐衣装、虎革を贈る。
 永禄10年11月9日、織田信長が、正親町天皇から入洛を促す綸旨を拝受。合わせて、正親町天皇から尾張・美濃の朝廷領の回復や誠仁親王の元服費、皇居の修理などを無心される。//立入宗継が岐阜に綸旨を届ける。
 永禄10年11月21日、足利義秋が、越前の金ヶ崎を出発して、その日のうちに一乗谷について安養寺を御所とし、すぐに朝倉義景と対面し、加賀門徒との和睦を説く。//義景は加賀門徒との和睦に同意。
 永禄10年12月、武田氏・今川氏・北条氏の同盟が破れたため、今川氏真が上杉輝虎に救援を求める。//10月19日参照 永禄10年12月12日、加賀門徒の頭領格の杉浦玄任の子が、和睦のための人質として越前一乗谷に送られ、朝倉方も義景の娘三位を顕如の長子教如に、その妹を一家衆の越中勝興寺え嫁がせる約束をする。
 永禄10年12月15日、加賀門徒方と越前朝倉方の和睦にあたって、加越国境にある加賀門徒方および越前朝倉方の砦が破却され、北国街道の往還が自由となる。//超勝寺や本覚寺などの門徒寺は60年ぶりに越前還往を許される。
 永禄10年12月15日、顕誓(浄土真宗、蓮如の孫)が、謹慎中のところ「古今独語」を書きあげる。
 永禄10年12月、浅井長政と正室お市の間に長女茶々が誕生。

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