950(1569)_==永禄12年==(最新版)

^^あくまでも司空流の「こうかも」年表ですので、誤っている可能性があります。^^
^^ご利用に際しては、解説・注意をご確認の上、各人で十分に史実をご確認ください^^

 永禄12年(1569)、尼子氏と但馬の山名氏が同盟を結ぶ。
 永禄12年、浦上宗景が、旧播磨守護家の赤松義祐と赤松則房、播磨の有力国人・小寺政職らと結び、これの救援を名目に播磨における兄浦上政宗の遺領を吸収。(Wiki)
 永禄12年、浦上宗景が、西播磨において侮り難い勢力となっていた赤松政秀を討つ為に、備作衆を率いて播磨国西部へ侵攻。-この頃、宗景は尼子氏再興を目指す尼子勝久などの反毛利の勢力を積極的に支援し、九州の大友宗麟とも同盟して毛利氏への対抗姿勢を露わにする。(Wiki)
 永禄12年、赤松政秀が、浦上宗景の攻勢に対抗するため、将軍足利義昭と織田信長に救援を要請(Wiki)
 永禄12年(1569)1月4日、三好三人衆並びに斎藤右兵衛太輔竜興、長井隼人ら、南方の諸浪人を催し、薬師寺九郎左衛門を先鋒として、将軍足利義昭の御座所六条に取り詰め、門前を焼き払い、寺中に乗り入れようとする。(三好三人衆とは三好長逸らで、堺の後援を受ける。このとき、六条に立て籠もる武将は、細川典厩・織田左近・野村越中・赤座七郎右衛門・赤座助六・津田左馬丞・渡辺勝左衛門・坂井与右衛門・明智一兵衛・森弥五八・内藤備中・山県源内・宇野弥七。斎藤竜興は後に越前に下って、朝倉義景を頼ったが刀根山の合戦で戦死。しかし、竜興の弟(斎藤新五郎≒織田信孝の家老斎藤玄蕃允利堯か?)は道三の孫であることから、信長はこれを助けて、斎藤家の跡を継がせるため、生活をできるだけの領地を与えた。)
 永禄12年(1569)1月4日、薬師寺九郎左衛門(三好方)が山県源内、宇野弥七両人を討ち取る。
 永禄12年(1569)1月5日、三好三人衆が京都に乱入し、足利義昭の住む六条本圀寺を襲う。(この際、細川典厩藤賢・津田左近・赤座七郎右衛門・赤座助六・津田左馬丞・渡辺勝左衛門・明智一兵衛・森弥五八・内藤備中守および若狭衆の山県源内・宇野孫七らが切ってで、後巻きとして伊丹・荒木・茨木・細川兵部大輔(藤孝)・三好左京大夫らがかけ向かい、桂川辺りで1戦に及んで大利を得た(原本信長記)(1月6日が正解?)。)
 永禄12年1月、三好左京大夫、細川兵部太輔、池田筑後、六条将軍御座所に救援に向かう。
 永禄12年1月、京都桂川あたりにて、織田軍と三好軍がぶつかる。織田勢は、細川兵部太輔、三好左京大夫、池田筑後、伊丹、荒木、茨木ら。三好勢のうち、高安権安、吉成勘介、同弟、岩成弥介、林源太郎、市田鹿目介らを討ち取る。
 永禄12年1月6日、三好三人衆と織田勢が、京の桂川付近で合戦。
 永禄12年1月6日、織田信長、三好三人衆が京都に乱入した旨の飛脚の知らせをうける。(この日、大雪)
 永禄12年1月6日、織田信長、大雪の中、美濃岐阜城を出発。
 永禄12年1月8日、織田信長が上洛。(3日の道程を、2日で到着。入洛時の供は騎馬武者21騎程度。池田せいひんの手柄を聞き、多分の褒美。織田信長、将軍御所の再建を決定。)
 永禄12年1月9日夜半、上杉輝虎が攻囲中の本庄城において、城兵が上杉輝虎陣営を夜襲。
 永禄12年1月、織田信長が、堺に対して、三好三人衆に味方したことを責め、町の焼き討ちと老若男女問わずなで切りにすることを通達。
 永禄12年1月10日、上杉家重臣色部勝長が、本庄城(村上市)包囲中、城主本庄繁長の夜襲を受けて戦死。
 永禄12年1月11日、本願寺顕如が、織田信長に対して、年頭の祝詞を書く。合わせて、太刀と馬を贈る。
 永禄12年1月11日、越後からの塩が、雪中、糸魚川街道(松本街道)を経て深志城下(松本)に到着。//武田信玄は、塩の御礼に上杉謙信に太刀一振(塩留めの太刀)を贈る(→東京国立博物館所蔵)。武田氏が今川領に侵入した報復として、永禄10年に今川氏真が武田領への塩の輸出を禁止した。
 永禄12年1月14日、織田信長が、九カ条の事書と七カ条の殿中御掟を信長の名で定め、足利義昭に花押させる。
 永禄12年2月2日、織田信長、足利義昭の新第を勘解由小路室町の旧足利義輝邸に起工。(この際、人夫を尾張・美濃・伊勢・近江・伊賀・若狭・山城・丹波・摂津・河内・和泉・播磨などから集める?) //2月27日に鍬初めの儀式//石材が不足したため、京周辺の石仏などを倒して利用。
 永禄12年2月2日、木下秀吉の家老蜂須賀正勝から、足利義昭の申次一色藤長・飯河信堅の両人に宛てて、光源院に対する前将軍足利義昭の仏事料の取り扱いに関する書状。
 永禄12年2月6日、上杉輝虎が、本庄城周辺の地下人に対して、槍・縄・なた・鍬などを持って参陣した者には褒美を与える触れを出す。
 永禄12年2月17日、本願寺顕如が、毛利元就・毛利輝元・吉川元春・小早川隆景のそれぞれに書状と贈り物を送る。
 永禄12年2月27日、織田信長、二条の将軍御所の鍬初めの儀式。大工奉行を村井民部、嶋田所之助に命ずる。(方形に石垣両面に築き上げ、堀を広げさせる。この将軍御所造営の際に、細川殿の御殿の『藤戸石』を二条御所に運ぶ。)
 永禄12年2月27日、堺の町衆が、織田信長に対して、今後、三好三人衆に味方せず、浪人を集めない旨を誓い、首代として2万貫を差し出す//30億円以上?//信長は、松井友閑を堺の代官、今井宗久を郊外の五箇荘の代官に命じる。 永禄12年2月28日、足利義昭は、幕府として、前将軍足利義輝の仏事料として、1ト軒というものの跡の田畠及び能勢分といわれる塩公事銭、それに頼子帳役(たのもしちょうやく)などを光源院(京都市上京区)に寄付。
 永禄12年2月29日、織田信長方の3千の兵が、摂津の古い港町である尼崎を囲み、矢銭を要求。 永禄12年(1569)春、尼子勝久/山中鹿之助ら京都を出発して但馬に入り、山名氏の家老垣屋播磨守の援助を受け、海賊の将奈佐日本助の軍船に乗り、隠岐に渡航し隠岐為清を頼り、出雲入国の機会を伺う。(隠岐渡航はなく、但馬から直接出雲に入国したとする説もある)
 永禄12年、織田信長、天下の名物を召し置かれることを命じる。//大文字屋所有の初花(唐物の茶入れ:天下3肩衝の1つ、信長→秀吉→徳川家)、祐乗坊のふじなすび(茄子型をした唐物の茶入:秀吉→前田家:前田家伝来)、法王寺の竹さしやく、池上如慶のかぶらなし(京都新在家居住の池上如慶が持っていた青磁の花入れ(天下一))、佐野(佐野は屋号を灰屋という)の雁の絵、江村のもくこそ(百底の花入)など。
 永禄12年3月、上杉輝虎に攻囲されていた本庄城城主本庄繁長が、伊達輝宗と蘆名盛氏を通じて助命を願い出る。//上杉輝虎は渋々受諾し、本庄繁長が息子顕長を人質に差し出すことを条件に本領を安堵して、本庄繁長の謀反は終息。
  永禄12年3月1日、織田信長が、四天王寺境内において撰銭令を発する。//雑多な銭が使われているため、それらの交換比率を定めた?
 永禄12年3月6日、織田信長方の兵が、矢銭の差出を拒んだ摂津の尼崎を攻め、男女30人を殺し、尼崎四町(尼崎市城内近辺)を全て焼き払う。
 永禄12年3月8日、ルイス・フロイスが、織田信長に拝謁し、京における布教を許される。
 永禄12年3月18日、秀吉、小早川隆景へ毛利元就からの使者派遣につき取り次ぐ旨,通知。
 永禄12年3月26日、足利義昭が、朝倉義景と石山本願寺との同盟を強めて、織田信長に対抗するため、朝倉義景が本願寺に使僧派遣に合わせて、石山本願寺に手紙を書き、三淵晴員に届けさせる。合わせて、加賀の幕府領の年貢確保を依頼
 永禄12年4月5日、本願寺顕如が、三淵晴員宛に返書。朝倉義景からの使者の来訪は恐悦であるとともに、加賀の幕府領のことは粗略にしないとの内容。
 永禄12年春頃、毛利元就/輝元は長門長府に移陣。
 永禄12年4月10日、織田信長、禁裏御料所丹波国山国荘における宇津頼重の違乱を止めることを命じる。//この際、木下秀吉・丹羽長秀・中川重政・明智光秀が連署で書状を発信。
 永禄12年4月14日、足利義昭、六条本国寺から、勘解由小路室町の新第(織田信長が造営)に移る。
 永禄12年4月16日、織田信長、禁中の修繕を、朝山日乗上人、奉行村井民部小輔に命じる。//この内裏修繕は、翌元亀元年11月まで続く。
 永禄12年5月、大友宗麟、北九州の陣に出征していた毛利方の米原綱寛(出雲高瀬城主)に毛利家への謀反と出雲尼子家への復帰を進める。
 永禄12年(1569)5月、山中鹿之助、尼子勝久を奉じて、奈佐日本助の軍船で隠岐に渡る。
 永禄12年5月11日、織田信長、美濃岐阜に至る。
 永禄12年5月17日、徳川家康が、今川氏真の籠る掛川城を攻略//今川氏真が徳川方の説得に応じて開城//氏真は海路沼津に落ち、北条氏の保護を受ける。
 永禄12年閏5月、九州渡海中の吉川元春と小早川隆景が大友方の筑前糟屋郡立花城を落とす>しかし、いつ大友勢に奪還されるか予断を許さぬ情勢。
 永禄12年、尼子旧臣が安芸吉田に討ち入り、幽閉されている尼子氏三兄弟の奪還を図る?>毛利勢が大友氏と筑前立花城を巡り、激戦を展開していた頃。
 永禄12年6月1日、フロイスが、京の会堂(六角通室町西入ル)において、豊後府中の神父フィゲイレド宛に手紙を書く。
 永禄12年(1569)6月13日、山中鹿之助/立原久綱ら、尼子勝久を擁して隠岐を発して島根半島の漁村千酌に上陸(その軍船数百艘とも)し、忠山(300㍍)に砦を築き、出雲へ乱入。尼子遺臣の糾合を図る。
 永禄12年6月23日、尼子勝久/山中鹿之助ら隠岐から出雲へ。山中鹿之助らは数度の戦の末、上陸し標高290㍍の忠山に砦を構築。当時の富田城主は毛利方天野隆重。忠山攻略の後、尼子旧臣が集合。秋上三郎左衛門綱平/秋上庵介久家※/森脇東市正久○※/横道源介高光※/目賀田新兵衛尉幸宣※/多賀兵庫助高信※/屋葺右兵衛尉幸堅※/津森宗兵衛尉幸俊※/匹田右近/匹田右衛門尉/原田孫六郎/松田兵部丞誠保※(但馬から同舟)/熊野兵庫助久忠/熊野次郎/馬田長左衛門/桜井与八/浅山六郎/田原兵衛/大山衆徒教悟院/中井兵三郎兵衛尉久家※/中井助右得門/加藤彦四郎/寺本市ジョウ/進左吉兵衛/高尾右馬ジョウ/高尾宗兵衛/目加田采女ジョウ/目加田弾右得門/※福山次郎左衛門/福山弥次郎/長森新右衛門/池田与三郎/相良助九郎/比田一郎太郎/徳吉孫九郎(※印は永禄9年富田城落城を見届けた家臣)。総勢3千余人。
 永禄12年(1569)6月下旬、尼子勝久、新山城(城主多賀左京亮元龍、標高2五6㍍。)を攻略し、本営を同城に移し、富田城周辺の諸城を攻略/奪取する。以降、元亀2年8月の尼子勝久出雲退却まで尼子氏の本拠となる。この後から翌月の富田城攻め開始までに末次城を陥落。
 永禄12年7月初旬、尼子勝久、富田城攻めを開始。富田城の守りは城番天野紀伊守隆重を始め3百余。尼子勢は富田城周辺の宇波(土居城)/山佐(天馬山)/布部(要害山)などに支城を築き包囲網を形成。その後、尼子方秋上庵助らが城番天野隆重の計略に陥り大敗。///天野隆重は1計を案じ秋上庵介に書状を送る。「毛利家御退治の後、吾本領の外、五万貫の所領宛行はるれば、当城明日明け渡すべく候。然りと雖も、無下に相渡さば、吾武名永く捨れ、芸州の妻子共1々頸を刎ねられん事、口惜しく候。明朝切岸まで寄せられ候ひなば、防ぎかねたる体にて本丸に引き退き、和平仕り、城を明け渡し、芸州へ帰り、御発向を待ち受け、旗を揚ぐべく候。」///庵介から報告を受けた山中鹿之助は「是れは勝久御運開かせ給わん瑞相なり」とて庵介を大将として富田城を攻めさせる。///七曲がりの山道を駆け上がり、合図を待つ庵介に天野隆重は「たばかりすましたり」と喜悦し、尼子勢に向けて矢を散々に射たため、尼子勢は大混乱となり、多数の死傷者を出し、「天野めに謀られ、諸方の笑い草になりなんこと口惜しけれ」と憤る。///武功夜話ではこの際富田城は落城したとあるが、後々の状況や他の文献から考えると、尼子勢は富田城を攻め落とすことはできなかったと思われる。
 永禄12年、尼子勢、富田城攻撃と並行して、須佐高矢倉城(城主熊谷広実:飯石郡)を攻めるも、返り討ちに合う。
 永禄12年、尼子旧臣福屋隆兼、石見復帰を策動するも失敗し、後に尼子勝久と合流。
 永禄12年7月3日、毛利元就、富田城二の丸の守将野村士悦に書状を送り、永禄9年の富田城落城後に毛利方になった城中の尼子旧臣の動静に注意しておくことを忠告。
 永禄12年7月、美作高田城の城主三浦氏(毛利元就に滅ぼされる)の部将安達信泰が守備していたが、三浦氏の一族芦田五郎太郎らが尼子方に応じて蜂起し、備前の宇喜多直家の援助を受け高田城を包囲。毛利方は高田城へ香川光景/春継父子を援軍として入城させる。
 永禄12年7月6日、朝山日乗、織田信長より伊勢で千石の知行を与えられる。
 永禄12年7月10日、本願寺顕如が、織田信長宛に書状と、金襴や手綱、腹帯などの贈り物を送る。//書状には「それ以後音問能わず候、遠路に依り兎角遅引の儀に候」とある。
 永禄12年7月17日、山中鹿之助/立原久綱/秋上久家ら、再度(7月2回目)、富田城下で毛利家の武将天野隆重と戦うも富田城を落とすことはできず。山中鹿之助、立原源太兵衛ら尼子再興軍1千余騎、月山富田城を奪還すべく、富田へ進出し、月山富田城を真向かいに見ることができる浄安寺を向かい城とした。
 永禄12年7月20日、興正寺が脇門跡に列せられる。//住持は顕如の次子佐超(6歳)。
 永禄12年8月、毛利方の服部左兵衛ほか、尼子勝久討伐のため、出雲戸倉よる島根半島に侵入。山中鹿之助/立原久綱/横道権之丞/米原綱寛らこれを破る。
 永禄12年8月、大友宗麟との戦いで北九州立花に出陣していた毛利方出雲勢の米原綱寛(高瀬城主)、三沢為清(三沢城主)らが富田城救援のため出雲帰国。⇒米原綱寛は尼子方に母子を人質に取られていたこと、大友宗麟から尼子方に就くことを勧められたこと、尼子方から高禄の誘いがあったことなどから、出雲帰国を期に毛利方から尼子方に寝返り。
 永禄12年8~9月、織田信長が、播磨の赤松政秀の要請を請け、池田勝正・別所安治に浦上宗景を攻撃させる。同時に、密かに織田信長と内通していた宇喜多直家が浦上宗景に対して反旗を翻し、宗景は窮地に陥る。-織田勢は播磨において数ヶ所の城を攻め落としたのみで退却したため、宗景が政秀を逆襲する。(Wiki)
 永禄12年8月3日、毛利元就に落とされた備後神辺城主山名氏の家臣だった藤井皓玄が、尼子氏の入国に呼応して神辺城に夜襲。当時城主の杉原盛重は北九州に出征中で荘原肥後守が城番を勤めていたが支え切れず逃走。神辺城は藤井皓玄の手中に陥る。それもつかの間荘原肥後守は村上/楢崎らと謀って神辺城を奪回し、皓玄を斬る。
 永禄12年8月12日、尼子方、高瀬城主米原綱寛を高禄をもって誘降し、成功。母子を人質にとられていたということもあるかも。これをきっかけに熊野城主熊野兵庫助久忠も尼子方に寝返り。三刀屋/三沢も山中鹿之助を頼って尼子方に与しようとしたが、尼子旧臣たちがこれを喜ばなかったため、両名の帰順を断ったとある。(諸将が褒賞が減ることを喜ばなかったというのが理由?)
 永禄12年8月、織田信長、毛利元就の要請を受け、羽柴秀吉を但馬/播磨に出兵、諸城を攻略させる。羽柴秀吉は生野銀山を始め但馬の18城を陥落させ、山名氏が没落、当主山名祐豊は和泉堺に逃れる。
 永禄12年8月13日、羽柴秀吉、但馬/播磨出陣を終え、京都に帰陣。
 永禄12年8月19日、朝山日乗、毛利元就以下の毛利家の人々に、木下秀吉が酒井政尚とともに五機内の衆二万ばかりを率いて,日乗が検使となって出張し,但馬の銀山・子盗・垣屋城を攻めた旨の書状を送り、8/18に諸城が落去したと報じる。(疑わしい?)
 永禄12年8月20日、織田信長、伊勢に出兵し、この日は桑名に逗留。翌日も逗留し、鷹狩りを催す。)
 永禄12年8月20日、上杉輝虎が、越中国の椎名康胤を討伐するために、越中へ出陣。//境川を越え、8/22には松倉城攻めを開始し、松倉城攻略後、河田長親を魚津城将とし、越中の諸将を統括させる。
 永禄12年8月20日、織田信長、伊勢の北畠具教攻略を開始。
 永禄12年8月23日、織田信長、小作に陣取り。
 永禄12年8月26日、木下秀吉、あざか城(伊勢国)に参加。
 永禄12年8月26日、織田信長、あざか城(阿坂城:松坂市内)を木下籐吉郎を先駆けとして攻めるも、籐吉郎浅手を被る。しかし、新手を繰り出し、城を攻め落とし、滝川左近の人数を入れ置く。
 永禄12年8月28日、織田信長、大河内城攻めのための布陣を命じる。
 永禄12年8月28日、尼子勝久、立原久綱に宛て感状発行。「今般入国の儀、その馳走をもって本望にあい達し、家再興の儀、甚だ喜悦候」との書き出し。
 永禄12年8月以降、尼子勝久/山中鹿之助、富田城攻略は困難と見て、まず伯耆の人心収攬のため国内の社寺に寺社領を寄進、所領安堵などを行う。また、大友宗麟などとの連携を強化。美作に吉田三郎左衛門を派遣し、芦田/市/三浦らの国人衆を味方につけ、備前の宇喜多直家も尼子への一味を伝える。
 永禄12年9月8日、織田信長が、稲葉伊豫・池田勝三郎・丹羽五郎左衛門の大河内城に夜討ちに関する進言を採用し、夜討ちするものの、雨が降り鉄砲が用に立たず、敗北。
 永禄12年9月、伯耆末石城神西三郎左衛門元通が尼子方に帰順。神西元通は山中鹿之助/高瀬城主立原久綱が出した使僧に対し「古柄小野の本柏」と書いて渡した。これは「石の上古柄小野の本柏 もとの心は忘れられなくに」という和歌によるものとして両名は本通の心を理解したという。
 永禄12年9月9日、織田信長が、南伊勢の大河内城(三重県松坂市大河内町)に籠る北畠具教を攻め、降伏させる。//信長は、次男信雄を北畠家の養子とし、具教に家督を譲らせる。//10月3or4日に攻め落としたとの説が正解か?
 永禄12年、河内守護代の安見直政が、河内高屋城において河内守護の畠山高政を追い出し、高政の弟昭高を立てる。//9月頃?
 永禄12年9月22日、織田信長、白子観音寺(鈴鹿市白子町)に陣取り。(伊勢攻略)
 永禄12年9月23日夜、富田城内の馬木彦右衛門/河本弥兵衛/湯原某が城外の尼子軍と呼応し、反乱をおこすもすぐに鎮圧される。7月3日付けの毛利元就の書状注進が功を奏す。
 永禄12年、この前後、石見大森銀山守備していた毛利方の服部/川村/2宮らは元就に疑われることを恐れ、出雲に進出しようとした。これに出羽/坂らも加わり、さらに安芸佐東の小田助左衛門も石見に入り、銀山勢と合流、その勢およそ3千、助左衛門を主将に出雲戸倉から原手郡へ進出。これを山中鹿之助/立原久綱/横道権ジョウらの尼子勢がが迎え撃ち小田助左衛門の首を横道がとり、坂らは逃走。「原手合戦という」
 永禄12年(1569)8or9月、尼子勝久らに対して、伯耆大山衆徒教悟院から飛脚にて毛利方の岩倉城が備前浪人らに攻め落とされたことを知らせ、「我ら先陣を承り、杉原盛重の守る尾高城を攻め取るので、1刻も早い尼子勢出陣」を要請。
 永禄12年9月、隠岐為清、富田城将天野隆重に通じて毛利方に寝返り。伯耆夜見ケ浜方面の民家に火を放つ。美保ケ関の宝寿寺山に拠る。山中鹿之助/立原久綱ら、250の兵を率い、美保ケ関を海より攻めるが、隠岐勢の反撃で苦戦。松田誠保/横道兄弟らの150の兵が隠岐勢の背後を衝き、為清は崩れ、兵400余りを残して隠岐に逃れる。隠岐為清は捕虜400と引き換えに美保関にわたり切腹、隠岐は弟の三郎五郎(清家)が支配。
 永禄12年10月、武田信玄が、駿河の扱い巡り、北条と対立し、相模の小田原城を攻撃
 永禄12年10月、大内輝弘(大内義隆の従兄弟)が豊後から大友宗麟の援助で防長の旧地を回復するため山口に出陣。長府の陣にあった毛利元就はこれを聞き、四囲の状況悪化を踏まえ、北九州立花に在陣していた吉川元春/小早川隆景を召還してこれに当たらせる。
 永禄12年10月3日、織田信長、北畠氏の居城伊勢大河内城を攻め落とす。
 永禄12年10月4日、織田信長、大河内城を陥れる。北畠具教父子、笠木・坂ないなる場所へ退散。その後、大河内城には、滝川左近・津田掃部両人を入れ置く。
 永禄12年10月5日、織田信長、伊勢の山田に至る。//この日は、堤源介の所に泊。
 永禄12年10月6日、織田信長、伊勢の内宮、外宮、浅間山に参詣。
 永禄12年10月6日、美作高田城内の熊野弥七郎や山中鹿之助の妹婿佐伯七郎次郎が反乱を起こすも香川春継に斬られ、芦田五郎太郎も潰走。
 永禄12年10月7日、織田信長、小作に泊。
 永禄12年10月8日、織田信長、上野(三重県安芸郡河芸町上野(織田信包が封ぜられる))に陣取り。
 永禄12年、北畠具教父子、織田信長に降参。織田信長の次男お茶筅へ家督を譲ることを堅約。//織田信長、伊勢大河内城に次男茶筅丸、あのの津・しぶみ・小作城に滝川左近を入れおき、上野には織田上野守を置き、京都に向かって出発。
 永禄12年10月9日、織田信長、千草越えの入り口。この日は大雪。
 永禄12年10月10日、織田信長、近江市原(滋賀県神崎郡永源寺町市原野)に宿泊。
 永禄12年10月11日、織田信長、伊勢討伐を完了し、千草峠を通じて上洛。
 永禄12年10月11日、織田信長、入京。将軍足利義昭に、伊勢平定を報告。
 永禄12年10月13日、織田信長、参内して天皇から直々に盃をいただく。
 永禄12年10月13日、一色藤長・上野信忠、吉川元春に宛てて、三好三人衆の京都襲撃ならびにそれを撃退した旨の書状を出す。
 永禄12年10月16日、織田信長が、足利義昭が各地の大名に内書を濫発することを不快に感じ、義昭と衝突。
 永禄12年、織田信長が、明智光秀に命じて、阿波の門徒が三好三人衆に加担している点について、石山本願寺に詰問状を送付。
 永禄12年10月17日、織田信長、足利義昭と意見があわないため、岐阜へ帰還する。**奈良興福寺の僧侶多聞院英俊の日記に記載されており、あからさまな喧嘩ではなかったかと思われる。
 永禄12年10月17日、織田信長、美濃岐阜城に帰陣。//この際、柴田勝家・丹羽長秀・重政・木下秀吉は京都を引き上げて従軍するが、明智光秀はなお京都にあって政治に当たっていたと思われる。正親町天皇、織田信長の突然の帰国を聞き、驚き、女房奉書を信長に宛てて発する。
 永禄12年10月21日、大内輝弘、毛利勢に攻められ周防富海(トノミ)の茶臼山で自害。
 永禄12年11月、浦上宗景が、播磨龍野城主赤松政秀を降伏させ、政秀の所領を手中にする。
 永禄12年、浦上宗景が、織田信長に内通した宇喜多直家の謝罪を受け入れ、帰参を許す。(Wiki)
 永禄12年11月8日、足利義昭が花ヶ前頼慶を上杉輝虎に遣わし、織田信長とともに越・甲の和睦を斡旋する。
 永禄12年11月19日付、大友宗麟、山中鹿之助に宛てて書状を出し、高田城の堅固さを喜び、硝煙2壷を進上すると申し入れ。この頃、毛利元就は朝廷/幕府を動かし、大友宗麟との和睦を調整中。
 永禄12年11月20日、上杉輝虎が関東に出陣して沼田城に入り、関東諸将の参陣を促す。
 永禄12年11月20日、本願寺光佐、明智光秀に書状を送り、阿波表の儀について門下のものが光佐の命で動いているといわれるが、それについて自分は何もしらないということを足利義昭に申し入れて欲しい旨の書状を発する。//この頃織田信長・足利義昭は阿波征伐の計画を練っていたが、これを本願寺の門徒が三好三人衆と協力して妨害しているとの噂が流れた。
 永禄12年(1569)11月下旬、毛利元就、長府の本陣(北九州攻略の拠点)を撤退。主力を安芸吉田郡山城に集結し、山陰の尼子勢討伐の準備を進める。
 永禄12年、安国寺恵瓊、安芸安国寺の住持となる。
 永禄12年12月、山中鹿之助/立原久綱/牛尾弾正忠/横道兵庫助/同権之丞ら、三沢為清討伐のため日登の固尾に出兵するが、風雪のため捗々しい戦果なし。
 永禄12年12月26日、北条氏政が、沼田城在陣中の上杉輝虎に対して歳暮を贈る。//上杉輝虎は沼田城で越年。

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