司馬遼太郎先生なら、昨今の集団的自衛権に関する議論をどのように語られるだろうか(その1)

以下、『この国のかたち(司馬遼太郎先生著、文春文庫) 第四巻 81別国』より抜粋

 この章は、昭和初期十数年間の"別国"の本質について書く。
 "日本史的日本"を別国に変えてしまった魔法の杖は、統帥権にあったということは、この連載の冒頭のあたりでのべた。
(中略)
 旧憲法的日本は、他の先進国と同様、三権(立法・行政・司法の三権)の分立によってなりたっていた。大正時代での憲法解釈では、統帥権は三権の仲間に入らず、「但し書き」として存在した。要するに統帥権は、一見、無用の存在というあつかいだった。さらには、他の三権のありかたとは法理的に整合しなかった。
(中略)
 亡国への道は、昭和六年(一九三一年)から始まる。このとし統帥権を分与されている関東軍参謀らが、南満州鉄道の柳条湖付近で密かに線路を爆破し、それを中国軍のしわざであるとしてその兵営を攻撃し、いわゆる満州事変をおこした。
(中略)

 この"事変"が日本の統帥権(参謀本部)の謀略からひきおこされたことは、いまでは細部にいたるまではっきりしている。
 "事変"を軍部が統帥権的謀略によってつくりだすことで日本国を支配しようとしたことについては、陸軍部内に、思想的合意の文書というべき機密文書が存在した。
「統帥綱領」「統帥参考」
 がそれである。(中略)
 編んだのは統帥権の機関である陸軍の参謀本部であった。この書物は軍の最高機密に属し、特定の将校だけが閲覧をゆるされた。

(中略)

 その本の中に「非常大権」という項目がある。
 簡単にいえば、国家の変事に際しては軍が日本のすべてを支配しうるというものである。以下、直訳する。
「軍と政治は原則としてわかれているが、戦時または国家事変の場合は、兵権(注・統帥権のこと)を行使する機関(注・参謀本部のこと)は、軍事上必要な限度において、直接に国民を統治することができる。それは憲法第三十一条の認めるところである。この場合、軍権(統帥権のこと)の行使する政務'政治活動のこと)であるから、議会に対して責任を負うことはない。」
 という。このみじかい文中で兵権と軍権という類似語がたがいに無定義に使われている。兵権も軍権もおなじ意味で、統帥権のことである。

(中略)
 憲法三十一条は、第二章の「臣民権利義務」のなかにある。
 その章には、この憲法の近代的な性格をあらわす条文がふくまれている。日本臣民は裁判をうける権利をもち、所有権を侵されることがなく、また居住・移転の自由、信教や言論、著作、印行、集会、結社の自由をもつなどである。第三十一条は、それらの条文のあとに設けられている。
「本章(注・臣民権利義務)ニ掲ゲタル條規ハ戦時又ハ国家事変ノ場合ニ於テ天皇大権ノ施行ヲ妨クルコトナシ」
 という。この憲法第三十一条は、要するに国家の大変なときは、国民の権利や自由はこれを制約したり停止したりすることができるというものである。
 一見、おそろしげにみえるが、当時、どこの国の憲法にもこの一項は入っていて、人間のくらしでたとえると入院治療とかわらない。入院中、その人の自由は制限され、医師の指示下におかれるようなものである。むろん、あくまでも常態ではなく、一時的なものである。
 この憲法第三十一条でいう事変とは、なにか。むろんさきにふれた"満州事変"の事変ではない。"事変"がどういう意味かについては、すでに明治二十一年、憲法草案の条文逐条審議の段階において問題になった。
 もし、"事変"の解釈をあやまって非常大権が発動されたりすればはじめから憲法などつくる必要もなく、いわば無法の国家になってしまう。そんなむちゃな国家をつくるつもりは、むろん明治人にはなかった。

 事変という日本語はふるくからあった。しかし、恣意的なつかわれかたをしてきて、定まった意味はなかった。
 質問者として山田顕義が登場する。
 山田は長州奇兵隊出身で、戊辰戦争中、一部で"小ナポレオン"などといわれた軍人である。明治七年以後は司法畑で働き、明治十八年、内閣制がはじまると、司法卿から最初の司法大臣になった。
 ときは、明治二十一年六月二十七日である。場所は枢密院での憲法草案の逐条審議の席上だった。山田は、第三十一条の事変という用語にひっかかって、執拗に質問した。ひょっとすると、後世、この条を悪解釈する者が出てくるという危惧をもったのかもしれない。
「英語で何という字に当たるか。」
 と問うた。
 これに対し、「報告員」という立場で答えるのは、明治期を通じてもっとも優れた官僚だった井上毅である。
(中略)
 その井上が、フランス語の単語で答えた。

(その2へ続く)

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