950(1580)_==天正8年==【旧版】

>_<あくまでも司空流の「こうかも」年表ですので、誤りがあっても司空は一切の責任はとりません。>_<
>_<ご利用に際しては、解説・注意をご確認の上、各人で十分に史実をご確認ください>_<



 天正8年(1580)、対馬の僧玄蘇、宗氏の依頼を受け朝鮮を訪問。
 天正8年(1580)、佐久間信盛、織田信長から追放され、高野山に追われる。//この後、高野山も追放され、熊野の奥に蟄居を命じられる。
 天正8年(1580)、林通勝、織田信長から追放される。//弘治2年(1560)に織田信長の弟織田信行を立てようとした罪にて。
 天正8年(1580)1月6日、羽柴秀吉、自ら兵を率いて播磨三木城で最も高い場所にある宮ノ上砦を占領。以後、同砦から三木城を攻撃。城内は既に飢餓状態③
 天正8年1月17日、播磨三木城主別所長治が自刃。
 天正8年(1580)、羽柴秀吉、亀井茲矩に因幡国鹿野城の守備を命じ、毛利勢に包囲されつつもこれを死守。
 天正8年2月、織田信長、村井貞勝に本能寺の修理を命じる。
 天正8年4月、羽柴秀吉、西播州平定のため、姫路城を根拠地とし、三木通秋が守る英賀城と赤松氏の一族宇野祐清が守る長水山城を攻め、4月下旬から5月初旬にかけてこれらを陥落。⇒英賀城城下の町人・百姓の大半を除名し、姫路城下に呼び寄せる。長水山城落城時には、兄弟一類被官以下迄残らず斬首した(紀伊続風土記)とある。
 天正8年6月24日、長宗我部元親、明智光秀を奏者として鷹16聯と砂糖3千斤を織田信長に贈る。
 天正8年8月2日、本願寺顕如、教如父子が石山本願寺を織田信長に明け渡す。⇒その後、父子は紀伊に移る。
 天正8年8月2日、織田信長が石山本願寺に火をかけ、焼亡。
 天正8年10月18日、羽柴秀吉、播州龍野で楽市楽座を認める文書を発行

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