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真言宗総本山 教王護国寺 東寺の秋のライトアップ

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京都 東寺。 言わずと知れた、世界文化遺産。 真言宗総本山 教王護国寺、弘法大師(空海)の創建でございます。 午前中、京都南ICを下りて洛中に向かう途中に「ライトアップ」という看板を見つけ、帰路に拝観。色付きはじめた落葉樹の向こう側に浮かび上がる東寺の象徴五重塔は幻想的で、木材が黄金色の光彩を放っているようにも見えます。(この記事をアップすることには、紅葉も最盛期かもしれません) 金堂も講堂も公開されていました。 金堂には、薄明かりの中で夜の闇に浮かぶ薬師三尊と薬師如来座像を力強く支える十二神将が鎮座しています。 講堂には、大日如来を中心にして、四隅には多聞天、持国天、増長天・広目天の四天王と、五体の金剛菩薩像、五体の明王像、さらに、梵天と帝釈天が、密教浄土を表現しています。 蝋燭の灯火なら、微風が光を揺らすことにより、仏像の金色に絶妙な動的陰影を与えるのだとおもいますが、明るすぎる夜に慣れてしまった私には光源が電気であっても往時を忍ぶことができているような錯覚を覚えます。(金堂、講堂内は撮影禁止でした。) 灯火の少ない境内を歩きながら、観智院や宝物館も参詣できるのかと思い、歩いてみましたが、さすがにそれらは閉館しておりました。 パンフレットに拠れば、ライトアップは12月上旬までです。何も考えず、準備もせずに、自家用車でアクセスしましたが、駐車場はありました(拝観料とは別料金が必要です)。 地方の自動車利用者には駐車料金と拝観料のダブルパンチですが、わたしは拝観する価値があると思います。

ため池周回ラン

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この二、三日、11月とは思えない陽気です。 久しぶりに自宅近くのため池を周回ラン! 美しい夕焼けでした。 スマホでは眉月を明瞭に撮影することは難しそうです。

学び舎は…

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社会人になって20年も経過すると、卒業した学校が徐々に姿を変えていきます。 高校は自分が3年生の時に建て替え工事が終了し、自分の下の学年から新校舎に移動しました。工事の騒音と埃に悩まされた記憶はあまりありませんが、得をした世代ではないなぁと思います。 さて、久しぶりに母校(大学)に行く機会があったので、当時、自分の通った研究室があった建物に足を運んでみました。 当時は、土木工学科が入っていた建物なのですが、いまは工学部ごと郊外の新キャンパスに移ったため、人文系の研究施設が入っているようです。 耐震補強が行われていて、外観が多少マッシブになっていました。大人数授業用の階段教室には自動ドアがついているのか、少し入口の様子が変わっています。 この階段教室はいまでも土木工学科が使っていると聞いています。 この階段教室の下が実験室になっていたのですが、いまはどんなふうになっているのか。興味が湧きましたが、建物内に入ると怒られそうなので、残念ながらあきらめます。

掛川神社(高知市薊野)

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土佐神社(一宮神社)に向かう途次、道路脇に「掛川神社」という看板を見つけたので、帰路に立ち寄ってみました。 その名称から想像するに、土佐藩主山内家が土佐に入部する際に、以前の所領であり、関ヶ原合戦の戦功の契機となった遠江掛川から分祀したのではないかと思われます。 主要道路を曲がると自動車が通れる舗装された参道があり、前方には石段が見えます。 参道脇に駐車場スペースがありました。 鳥居を潜り、石段を上ると、中間地点付近に手水鉢と社務所らしき建物があり、さらに上ると本堂があります。 本堂は小さな独立丘陵の頂上を造成して平地にしていますが、本堂の大きさにしては比較的大規模に造成しており、本堂以外と管理所以外に大きな建物がないことと相まって、雑木林に囲まれた境内としての空間は広く感じられます。 同神社の由緒は、石段下にある看板に拠れば、以下のとおりです。 ========================= 江戸時代の寛永十八年(1641)、第二代土佐藩主山内忠義が、その産土神であった牛頭大王を遠州掛川から勧請して、高知城東北の鬼門守護神として建立したのがはじめてである。以来、代々藩主から特別の崇敬を受けていた。明治元年(1866)現社名に改称した。 合祭神社中、瀧宮神社、海津見神社は、現境内地付近に鎮祭の古社で、いずれも明治三二年(1899)合祭した。 東照神社は延宝八年(1680)四代藩主豊昌が徳川家康の位牌殿を設けたのが始まりで、文化十一年(1814)には、十二代藩主豊資が境内に社殿を築造し、東照大権現と称していたが、明治元年東照神社と改称、明治十三年(1880)に合祭した。祭神が徳川家康であることから、県下の神社では唯一、社殿の軒下や手水鉢に徳川家の家紋“三ツ葉葵“がつけられている。 社宝として、国の重要文化財に指定されている「糸巻太刀 銘国時」(山内忠義奉納)、「錦包太刀 銘康光」(山内豊策奉納)がある。いずれも現在東京国立博物館に寄託されている。 飛地境内として椿神社・秋葉神社がある。 ========================= わたしは、山内一豊が旧領掛川時代の家臣と、新規採用の家臣団を伴って、新領土佐に入部した際に、山内家の繁栄鎮護のために、この掛川神社を勧請したものと想像していましたが、少々違っていたようです...

ふるさとチョイスで藁焼きたたき from 高知県中土佐町

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ふるさとチョイスで高知県中土佐町の藁焼き鰹のタタキをいただきました。 寄附金額は15,000円だったと思います。 冷蔵の宅急便で送られてきたので、おそらく焼きたてを真空パックしたものです。 量的にはパンフレットに載っている写真と同じです。 ちょっと少ないかな、こんなもんかなぁ…、と悩みましたが、最近、返礼品に対する規制が厳しくなっているので、適正量かな。 タタキの短冊を厚さ8㍉前後に切り、お皿に盛りつけます。 薬味にニンニク×3欠片と細ネギ(風味を壊さないために敢えて10㌢くらいに切られています)が付いています。 ニンニクはスライスし、細ネギは細かく刻んで鰹のタタキを盛りつけたお皿に散らします。 さらに同梱のタレをかけて、出来上がり。 秋の戻り鰹は脂が乗っていて、とても美味美味! 藁焼きたたきは口に入れたときに藁が焼けるときの香りがほんのりと鼻腔に広がります。 燻製のようなこの香りがわたしはたまらなく大好きです。 久礼 山本鮮魚店さま、とても美味しい藁焼きたたきをありがとうございました。

坂本龍馬記念館

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 9月29日、台風24号が接近する中、土佐國若宮八幡宮を訪れたあと、浦戸にある坂本龍馬記念館を訪問。  以前、20年ほど前に訪れた記憶はありますが、その後、新館ができるなど、設備が拡充されております。  坂本龍馬記念館は長宗我部元親が築城した浦戸城城跡にあります。  壮大な太平洋の絶景を見下ろす、展望という観点では最高のロケーションです。  ただし、土佐國一国を支配する拠点としては南に偏り過ぎているように思われます。  山内一豊が土佐に入府して間もなく今の高知城に移ったのはその辺の理由もあるものと思います。  新館はシンプルな建物です。  本館は斬新・革新的なスタイルで、太平洋の方向に向かって色鮮やかな鯨が頭を突き出したような形状をしており、その頭の部分は硝子ばりの展望台になっています。  新館側から入館し、一階受付で入館料を支払います。企画展示が開催されていなかったため、入館料は490円でした。そのあと、二階に上がると、音声ガイドの受付があったので、保証金1,000円を支払って、レンタルしました。 音声ガイドは、展示の説明書きを棒読みしているだけだったので、あまり魅力を感じませんでした。ただ、補償金はあとで帰ってくる無料タイプなので内容が薄いのは仕方がないのかもしれません。 この日は、常設の展示(常設展示室とジョン万次郎展示室)のみでした。 しかし、常設展示室だけでも興味深い書簡(複製)が多数展示されており、知的好奇心という意味で眼福になりました。 「龍馬が行く」をはじめ司馬先生作品に出てくる龍馬関係の書簡を複製ではありますが、肌で感じることができます。 姉乙女への手紙であったり、薩長同盟直後に桂小五郎が龍馬に同盟の内容を確認するために発信した書状とその裏書き、土佐藩が藩を上げて薩長に協力することになったときに龍馬が発信した書状などなど、じっくりと読んでいけば、とても一日では回りきれない充実した展示です。 特に薩長同盟の内容に関する桂小五郎の書状はこれまで原文で読んだことがなく、当時の緊迫した時勢を感じられるものでした。 わたしは古文書を読めませんが、ここの記念館はほぼ全てに読み下しをつけてくれているので、非常に助かりました。 あと、こちらも複製ではありますが、坂本龍馬の写真がありました。演台のようなものに右肘をつき、羽織...

土佐国 若宮八幡宮

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台風の影響が予想されたため、この週末は単身赴任先の高知市内に待機することに。 そこで、早朝10㌔走ったあと、まだ台風が遠方にある午前中に高知市の浦戸湾を望む坂本龍馬記念館を目指して、高知市内を出発。 高知競馬場・ヨネッツ(ゴミ焼却場で発生する熱を利用したスポーツ施設)を通過すると、ナビ画面に「若宮八幡宮」と表示されたので、立ち寄ることに。 「若宮八幡宮」は長宗我部元親が数え23歳で初陣をした長浜合戦で有名です。 元親は背が高く、色白で柔和で、器量骨柄は申し分ありませんでしたが、物静かで、人に対面しても会釈もせず、微笑を返すだけで、日夜深窓にのみ居たため、「姫若子」と呼ばれていたそうです。 家臣達の中には「この人を主君と仰ぎ奉らんは、木仏を立てて後世を頼むに同じ」とまで囁き合う者もいたとか、いないとか。 父国親も深く歎き、合戦に伴うことを躊躇していましたが、さすがに数え23歳にもなり、長浜合戦に伴ったそうです。 長浜合戦は、長宗我部氏と本山氏の覇権争いです。 この合戦で、二十騎ほどの兵とともに味方から離れた元親達は、敵兵五十騎ほどに討ち掛かられましたが、元親は迷うことなく槍を取って敵に当たり、立て続けに三騎を突き伏せ、大音声で「名こそ惜しけれ、一足も引くべからず」と、駆け出しながら下知して、討ち合い、敵方の武将吉良式部少輔が元親を押し込めて討ち取ろうとしたところに、国親(当時、出家して覚世と称する)が割って入り、乱戦の上、長宗我部氏が勝利を得ました。 敗れた本山方の兵は浦戸城に退却したため、国親は下知して、「若宮の前、南北海際まで柵を結び、海には番船を浮かべて四方の通路を留めければ、城中には籠鳥の雲を恋ひ、涸魚の水を求むるが如くなれば、いつまでの命をこの世に残すならん」となったそうです。 ここに出てくる「若宮」が若宮八幡宮となります。 参道の脇に馬上に甲冑姿で槍を手にした元親の像があり、それに隣接して、木柵など少しだけですが往時を偲ぶ仕掛けがありました。 若宮八幡宮の参道はかなり長く(推定500㍍以上)、参道の両側に膝丈ほどの夏草が植生していて、元親の初陣の時の様子を想像させてくれます。 若宮八幡宮の周辺は凹凸に乏しい平坦地であり、陣形や囮、罠などの策を労することが難しく、敵味方数千の兵が集まれば、力と力の全面衝突になるよ...