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さぬきうどん たも屋(支店)

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本日はJRA高松ウィンズの少し南にできた「たも屋」に行きました。 このブログの記事を増やすためにあえて「たも屋」を狙いました。 この「たも屋」、元祖は高松市内の朝日町にある埋め立て地にあるり、老舗ではないと思うのですが、さぬきうどんファンが一目置く存在だと思います。 最近、多店舗展開を始めておられるようで、立て続けに香川大学工学部の前や丸亀町商店街、そして、JRA高松ウィンズ付近に出店されています。 今日の「たも屋」は国道32号線に面しています。前述のとおりJRA高松ウィンズの少し南です。ただし、北行き車線からしか店に入れませんのでご注意ください。 オレンジ色の看板に黒で「たも屋」と書いた目印がありますので、容易に見つけることができると思います。 駐車場は広いので、車でのアクセスはノープロブレムです。 店の外観は一枚目の写真のとおりです。まだ、新しくてきれいです。 うどんのメニューは2枚目の写真です。わたしは初めてのお店ということで、いつも通り「かけ」を頼みました。暑くなってきたので、「ひやかけ」も考えましたが、やはりそのうどん屋さんを知るには「かけ」がやはり基本です。 わたしは、ここ「たも屋」のかけ出汁は、他店に比べてヘビーテーストだと思います。 出汁の色は、他店と同程度なのですが、味は出汁がよく聞いていて、一口啜ると、出汁の味が口一杯に広がるような感じがします。 濃い口が好みの拙者にはよく合う出汁です(^^)/ となりで我が子が食べていた「ぶっかけ(ひや)」も美味しそうでした。 ちなみに、3枚目の写真が拙者がオーダーした、「かけ(大)」と「ミンチカツ」でごさいます。 ネギと天カスとワカメは取り放題(常識の範囲内で)です。 2枚目の写真にあるメニューの右隅に書いている「かすうどん」(?)というのが気になりますねぇー( ̄^ ̄) 値段が結構高いのですが、どなたか食べた方がいらっしゃれば、どんなものか教えて下さいな。

ランナーはタバコはダメ!

昨夜は土曜日にも関わらず懇親会があり、10時まで飲まざるをえませんでした(-_-) 今朝は朝起きるのがとてもきつかったのですが、1週間全く走っていないことから、気力を振り絞って、7時前にベットから出て、ランに出発しました( ̄^ ̄) 1週間、全く走っていないと、筋肉が落ちるのか、足が前にスムーズに進まなくなりました。 しかも、ここ1週間、仕事や私事などなど多忙を極めるとともに、強烈なストレスに苛まれ、僅かではありますが、タバコに手を出すようになりました。(T_T) 息が切れて、尚更、ラップが落ちます。(結局、1km8分以上のぬるぬるペースでした!) やっぱり、ランナーは1週間に3回くらいは走らないと駄目ですね。 しかも、タバコは厳禁です(゜゜;)\(--;) 来週からまた休煙します( ̄^ ̄)

950(1568)_==永禄11年==(旧版)

>_<あくまでも司空流の「こうかも」年表ですので、誤りがあっても司空は一切の責任はとりません。>_< >_<ご利用に際しては、解説・注意をご確認の上、各人で十分に史実をご確認ください>_<  永禄11年(1568)、足利義昭,織田信長に帰洛のことを再度依頼。  永禄11年(1568)2月、織田信長、北伊勢に出陣し、長野氏/神戸氏を下す。  永禄11年6月、吉川元春/小早川隆景ら豊後大友宗麟との対決のため北九州へ出陣。出雲国人衆米原/三沢/三刀屋らも動員。出雲大庭大宮(神魂(カモス)神社)の神官の一族秋上三郎左衛門尉綱平、毛利方の主力が北九州に出陣したことを京都の山中鹿之助/立原久綱らに通報。  永禄11年6月23日、足利義昭,細川藤孝・上野清信を使者として,明智光秀とともに織田信長に面会し,義昭を帰洛させるよう依頼した。(『細川家記』の記述で疑わしい。)  永禄11年7月12日、足利義昭,織田信長が帰洛のことを請け,まず美濃に移るため,近日越前を発つ旨,上杉謙信に書状で伝える。  永禄11年7月16日、足利義昭,越前一乗谷城を出発,近江に入り,浅井長政の館に泊まる。  永禄11年7月25日、越前へ和田伊賀守、不破河内守、村井民部、嶋田所之助を使わす。(これはおそらくあやまりで,7/25は織田信長が足利義昭に拝謁した日ではないか。)  永禄11年7月25日、足利義昭、美濃西庄(にしのしょう)立正寺に至る。(織田信長、足利義昭に鳥目千貫、太刀、鎧、武具、馬などを献上。)  永禄11年7月25日、足利義昭が越前朝倉氏のもとを離れ、美濃岐阜に到着。  永禄11年7月27日、織田信長,足利義昭に拝謁。(『細川家記』の記述。うたがわしい。)  永禄11年8月7日、織田信長、近江佐和山まで出陣。  永禄11年8月7日、織田信長、足利義昭の使者に添えて、信長の使者を、六角佐々木左京大夫承禎に義昭上洛のために人質の提出と馳走を命じるも、これより7ヶ日後、六角承禎はこれを断る。  永禄11年(1568)8月、山中鹿之助/立原久綱/三刀屋蔵人ら京都に会して尼子氏の再興を議し、大友宗麟と通じ東福寺の僧(新宮党誠久の遺児)を還俗させ、尼子孫四郎勝久として主君に推戴。(大3島神社に山中鹿之助奉納の大太刀が伝わる)...

950(1567)_==永禄10年==(旧版)

>_<あくまでも司空流の「こうかも」年表ですので、誤りがあっても司空は一切の責任はとりません。>_< >_<ご利用に際しては、解説・注意をご確認の上、各人で十分に史実をご確認ください>_< 永禄10年(1567)2月、毛利勢が出雲尼子攻略を終え、安芸吉田郡山城に凱旋 永禄10年(1567)春頃、織田信長が滝川一益を北伊勢に派遣。 永禄10年、毛利氏が播磨進出を企て、尼子方の播磨上月城を攻め落とす。 永禄10年3月、足利義昭,毛利元就に帰洛のための参陣を依頼する。 永禄10年8月2日、織田信長,岐阜城を落とし,斎藤竜興を追い,美濃を平定する。斎藤竜興はその伯父長井隼人らと近江に逃れ、のちに三好氏を頼る。他書は稲葉山城落城を永禄7年としているがこれは誤り? 永禄10年8月、織田信長が北伊勢に出兵。 永禄10年9月、織田信長、美濃稲葉山城を攻略。 永禄10年10月10日、松永久秀が三好三人衆との戦いの中で東大寺大仏殿を焼き払う。//このちょうど10年後に松永久秀は織田信長に謀叛し、自害している。?

祝:3000アクセス

おはようございます。 本日も天気晴朗。 日常の始まりです。 今日も朝からいつものとおり、自分のお弁当を詰め、家族の洗濯物を干し、会社に出発です(⌒‐⌒) 昨日、ついに、3000アクセスを突発しました(^^)d ブログを始めて半年。 勉強不足で、良いネタがあまりないですが、これからも頑張って参ります。 では、行って参ります。

足圧測定

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右足の親指と足の甲の痛みを感じるこの頃、市のスポーツ関連イベントに子供達を連れていったところ、幸運なことに、スポーツショップのSUPER SPORTS XEBIOさんが足圧測定と足の診断を開催していたので、診断してもらいました。 写真は拙者の診断結果です。 圧力が均等にかかっていて、それぞれの指にもしっかり力が伝わっており、また、アーチも高すぎず、低すぎず、バランスはよいと言うことでした(^^)v 全体の重心が少し前にあるようですが、男子は骨盤の形状の関係で少し重心が前気味になるそうで、これもそれほど気にすることはないとのことでした。 足の大きさは計測結果で26cmで、ランニングシューズの望ましいサイズが足の大きさプラス1cmということですので、拙者は27cmのランニングシューズを履くのがよいようです。 ちなみに足囲は247-248mmで、レギュラーサイズなので、サイズ27cmなら普通の靴を買えば問題ないということでした。 ちなみに、今履いているランニングシューズはもしかすると26.5cmかも…。 帰って調べてみます。 XEBIOさん、ありがとうございました。

右足の親指と足の甲に痛みが…

昨日、とってもゆっくり20Km走ったのですが、10-15kmあたりからどうも右足の親指が靴の爪先に当たって痛くなります。 そこで、右足の靴ひもを強めに結んで、出来る限りの足を固定して、親指が靴の爪先に当たらないようにしてやると、次は固く締めた圧迫で足の甲に痛みが出始めました。 このため、再び靴ひもを少し緩めて、足の甲をあまり圧迫しないように、でも、親指も靴の爪先にあまり当たらないように調整しながら、何とかランを継続し、20kmを走りきりました。 翌日も軽くランと思い、家を出発したのですが、足の甲が少し痛み、さらに、1kmくらいの所で少し鋭い痛みが走りました。 このため、ランは中断し、1時間ほどウォーキングすることにしました。ウォーキングならほとんど違和感を感じません。 帰宅後、ネットを見てみました。 両方ともよくある話みたいですね。 まず、親指。 拙者がみた限りで一番多かったのは靴が少し小さいというご意見でした。 例えば、止まっている時は靴の爪先に親指が当たらないけど、走ると靴の爪先に親指が当たってしまうようなケースもあるのでしょうか。 また、ある事例では靴の診断をしてもらったら、左右の足のサイズが0.5cm違うというケースもあるそうです。拙者の場合、左足の親指は大丈夫なので、もしかすると、右足のサイズが大きいのかもしれません。 解決案としては、「ワンサイズ大きな靴にする」、「爪を伸ばさないように心掛ける」、「土踏まずの部分が高めの中敷きを使用し、親指の先を下向き気味に修正する」、「親指を絆創膏やテーピングで保護する」などを見かけました。 とりあえず、初期投資が少なそうな絆創膏で様子を見ようと思っています。 次に足の甲ですが、拙者が調べた範囲では、靴が小さすぎ、または、靴ひもを強く絞めすぎというコメントが多かったように思います。 解決策は、「靴ひもを緩める」、「少し大きめの靴を履く」といった感じでした。 とりあえず、「痛みがあったら、無理をしない」というのが基本のようでしたので、靴ひもと同様に少しトレーニングを緩めてみます。 確かに、丸亀ハーフの時も同じ症状がありました。

鶏肉と茄子のカレー

久しぶりに料理しましたねー(^^)d 何か最近厨房に立つ機会がありませんでした。 では、鶏肉と茄子のカレーをいってみましょう。 【今回のレベル(司空の独断)】 ・準備:★★★☆☆(少し材料は細か目にした方が美味しいと思います) ・時間:★★★☆☆(カレーですから少しだけ煮込む時間は必要ですね) ・技術:★★☆☆☆(基本的には市販のルーを使ったカレーですから、それほど高度な技術は不要です♪) 【準備したもの(4-5人分)】 ・鶏肉(もも)…300g ・茄子…小5-6ヶ ・椎茸…小6ヶ ・玉ねぎ…1ヶ ・ニンジン…2本 ・市販のカレールー…適量 【作り方】 ・鶏肉を1cm程度の大きさに切り、油を敷いた鍋に入れて炒めます。 ・玉ねぎをみじん切りして、鍋に入れます。 ・人参、椎茸、茄子を5mm強の大きさに切り、鍋に入れて炒めます。 ・具材にだいたい火が通ったら、市販のカレールーに表示してある通りの水を鍋に入れます。 ・鍋の水が沸いたら、カレールーを入れて、ルーを溶かして出来上がり。  結局、カレーというのは、具材の組み合わせを工夫すれば、ほぼ無限大といってもいい種類ができるということですね\(^_^)/

950(1566)_==永禄9年==(旧版)

>_<あくまでも司空流の「こうかも」年表ですので、誤りがあっても司空は一切の責任はとりません。>_< >_<ご利用に際しては、解説・注意をご確認の上、各人で十分に史実をご確認ください>_<  永禄9年、足利義昭,尾張の織田信長に帰洛のことを依頼。さらに、足利義昭,細川藤孝を使者として,織田信長・斎藤竜興の和睦を図る。  永禄9年、能登守護畠山氏の当主畠山義綱が父義続とともに家老の遊佐氏や長氏、温井氏らに追放され、幼少の義慶が擁立される。***以後、天正2年に義慶が逝去し、畠山氏の跡目は途絶える。  永禄9年、羽柴秀吉が墨俣1夜城を築城//蜂須賀小六、前野長康らが助力。  永禄9年(1566)、山中鹿之助、亀井家の養子となる(この説怪しい)。その後、天正2年(1574)に山中家に戻るとの説。  永禄9年(1566)前後、富田城の尼子勢のなかから多数の脱落者が発生し、毛利方に下る。重臣の牛尾幸清(尼子家家老職)/亀井秀綱/河本隆任/河副久盛/佐世清宗(尼子家家老職)/湯惟宗など。この時、山中鹿之助21歳。  永禄9年1月1日、尼子家筆頭家老の宇山久兼が、嫡男弥四郎とともに、毛利家への内通の罪で尼子義久の命により誅殺される。  永禄9年1月、尼子家重臣宇山久信が佞臣大塚与3右衛門の讒言により誅殺される。毛利元就の謀略との説も。この後富田城内から脱し、毛利方に下るものが多数。  永禄9年2月(?)、毛利元就が洗合の本陣で病に伏す。  永禄9年3月、毛利元就の病が回復<将軍足利義輝が曲直瀬道3を出雲に下向させる。  永禄9年3月1日、足利義昭,上杉謙信に上京を促す書状を出すとともに,織田信長と斎藤竜興の和睦を催促。  永禄9年4月、織田信長が吉川元春に宛て、出雲攻略が進んでいることを賀する書状を出す。  永禄9年4月21日、毛利勢と尼子勢が出雲富田城麓の中須で合戦。  永禄9年5月24日、尼子家臣鉢屋賀茂弥三郎が富田城下の七曲口で毛利勢を相手に奮戦。  永禄9年5月214日、立原久綱、富田城落城の約半年前、尼子義久より富田城七曲口の戦いでの久綱以下鉢屋加茂弥三郎の忠功を賞する感状を得る。  永禄9年5月末、毛利元就、風邪がもとで病床に。小早川隆景/吉川元春協議し、聖護院門跡道澄に仲介を依頼し...

久しぶりの20kmラン&お遍路さん休憩所

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GWから、ずーっと、 ー走らないと、走らないと。 と思い続けていたハーフ20kmを本日やっとランしました(^^)v 今年2月の丸亀ハーフマラソン以来の20kmです。 このため惨憺たる結果でした。2時間38分もかかりました。 ゴールがとても遠かったです。 最近忙しくて平日に走る時間がないのが、体力低下の原因でしょうか(;´д`) 身体がなまってます。 さて、、、 拙者はランしながら町並みを見るのが好きなので、一車線しかない細い道とかに入ることが多いです。 今日もJR鬼無駅付近、高松市飯田町辺りの住宅街を走りましたが、そこに四国霊場88箇所巡りのお遍路さんの休憩所がありました。 拙者が持っているお遍路さん休憩所のイメージは、 一、あずま屋風にベンチとテーブルがあって、雨をしのぐ屋根がある程度 二、プレハブの小屋、あるいは、同等程度の作りで、小屋の中で休憩できるようになっている。 というものでしたが、ここ飯田のお遍路さん休憩所はとてもきれいで立派なものでした。 平屋の豪邸といった雰囲気です。 お遍路さんをご接待するのは、四国の良さを全国の皆さまに知ってもらうためにも、大いに賛成です(⌒‐⌒) それにしても、立派な施設だったので、驚きました。

スマホ本体メモリーの容量が…(T_T)

スマホの動作速度が遅くなってきたことについて、ネットで色々と調べています。 そのなかで、今まで知らなかった事実が…。 スマホって機種によってメモリー容量が違うみたいですね。 よくよく考えてみると、パソコンと一緒でメーカーや機種によってスペックは異なるのが当然ですね。 ただ、パソコンみたいに同一機種でスペックが異なるものを販売していない(と、思われる)ので、はじめてのスマホ購入の時には気付きませんでした。 拙者の機種は比較的本体メモリーの容量が少ない機種かと思われます。 本体メモリーにしかインストールできないアプリが結構あるので、本体メモリーが少ない拙者はメモリーの使い方をかなり工夫しないと自由にアプリがインストールできないということに気付きました。 潤沢にメモリーを搭載している機種だとこんな苦労はないのかも…。 次の機種変更の時には注意したいと思います。 でも、やっぱり、アプリはSDガードに移動できるようにしておいて欲しいというのが、ユーザーの本音かも…。

消費税増税論と政局に思うこと

民主党さんが消費税増税を進めるなか、自民党さんは審議拒否を続けているようです。 ある閣僚の方は、現在の社会保障は赤字国債の上に成り立っていて、このままでは破綻してしまうので、社会保障制度の改革が必要であり、そのために消費税増税が不可欠であるといった内容のことを御発言されたと聞いた。 将来の世代に過度な負担をさせてはいけないというのは納得できるが、後世に負の遺産を残さぬよう、現役世代がその負担を背負わなければならないというような主旨のことも言っていたような気がする。 それも納得。 しかし、年金制度をはじめとする社会保障制度の改革の全体像が見えないなかで、 -まず消費税を上げる。 というのは、拙者は理解できません。 法律を変えれば、消費税が上がり、税収が増えるかもしれませんが、今の社会保障制度を維持したまま、消費税を増税するというなら、拙者は次の選挙で民主党には絶対に票を投じません。 今の現役世代にあまりにも過度な負担を求めすぎだと思います。 社会保障制度の改革の絵姿もないまま、    ・65才まで年金は払いません。 などと言われたら、我々現役世代は年金を払うことを拒否しますね。 そもそも、我々の世代は平均寿命まで生きても、払ったがくより、年金給付額の方が少ないと言われてますからね。 社会保障制度改革の前に消費税を増税するというのはありえないと思います。 自民党さんは次期選挙を消費税増税賛否選挙にするために、消費税関連の審議には応じないが、それ以外は審議に応じてはどうかと愚考します。 ギリシャが連立不可で混迷を深めていますが、我が国も海外の方々から見れば、何もかもを政局に利用して、 -何をやってんだか! って、見えるような気がします。

950(1565)_==永禄8年==(旧版)

>_<あくまでも司空流の「こうかも」年表ですので、誤りがあっても司空は一切の責任はとりません。>_< >_<ご利用に際しては、解説・注意をご確認の上、各人で十分に史実をご確認ください>_<  永禄8年(1565)、毛利輝元と吉川元資(後の元長)が出雲富田城攻めに参陣。輝元と元資はこの時が初陣。  永禄8年(1565)、清水宗治、石川久孝の跡を継ぎ、高松城城主となる  永禄8年4月、毛利元就、本陣を富田城付近の星上山(京羅木山の西)に移し、八幡の浄安寺山、石原の滝山に布陣。  永禄8年(1565)4月17or18日、毛利元就、富田城を総攻撃を開始。3万余の毛利勢は3隊に別れ、小早川隆景は菅谷口(北の大手口)、毛利元就/輝元は御子守口(西の脇口)、吉川元春/元長父子は塩谷口(南搦め手)から進攻。尼子勢は菅谷口に尼子秀久、御子守口に大将尼子義久、塩谷口に尼子倫久を配して反撃。山中鹿之助、塩谷口の戦いで武功を上げる。  永禄8年4月18&19日、毛利勢と尼子勢が出雲市庭で小競り合い。鉢屋掃部が鉄砲で奮戦。鉢屋弥四郎も戦功を挙げる。⇒鉢屋掃部はその後尼子分国中の弦弓鉢屋親分(弓弦製造職の本宗)を申し付けられる。  永禄8年4月28日、富田城総攻撃を開始した毛利勢が洗合の本陣に1旦退却。  永禄8年5月19日、室町13代将軍足利義輝が、二条御所において三好修理大夫、松永秀久などの指令を受けた兵に襲われ、打ち取られる。享年31歳。//義輝の弟鹿苑院も平田和泉に殺害される。  永禄8年5月、南都一乗院門跡(足利義昭)、三好修理大夫・松永弾正(久秀)の監視の目をかいくぐり、逃亡。  永禄8年、南都一乗院門跡(足利義昭)、和田伊賀守を頼って、伊賀・甲賀路を経て、近江矢嶋に至る。また、佐々木六角承禎を頼むも、承禎は三好三人衆に脅されて,義昭を殺害しようとする。  永禄8年、南都一乗院門跡(足利義昭)、近江甲賀にて,還俗し,足利義秋と名乗る。  永禄8年、足利義昭,越後の上杉謙信に帰洛のことを依頼。  永禄8年、足利義昭、朝倉義景を頼って、越前に赴く。  永禄8年8月6日、毛利氏の武将杉原盛重が尼子方の伯耆江美城を攻め落とす。>伯耆の尼子方もこの時点で殆ど消滅。  永禄8年9月3日、毛利方の備中成羽城主3村家...