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きざみ大根菜のパスタ …高知県越知町の越智物産のお漬物…

高知県越知町で、美味しいお漬物で有名な越智物産のきざみ大根菜を使ってシンプルなパスタを作りました。 きざみ大根菜の味わいがオリーブオイルと唐辛子で一層引き立ちます。 娘から「これは店に出せる!」との好評価をいただきました。 【レベル】 ・準備:★☆☆☆☆ ・時間:★☆☆☆☆ ・技術:★☆☆☆☆ 【用意するもの】 ・越智物産のきざみ大根菜のお漬物(高菜でもよいと思います)…150g ・ニンニク…1~2欠片 ・唐辛子…1~2ヶ ・パスタ…150~200g ・釜揚げちりめん…150g 【作り方】 ・深めの鍋に水をはって、パスタを茹でるお湯を沸かします。 ・火にかける前のフライパンにオリーブオイルを敷いて、スライスしたニンニク、ハサミで大雑把に輪切りにした唐辛子を投入したあと、弱火でじっくりと香りと辛味をオイルに移します。(これはいつもの基本行為です) ・この辺りで、パスタを茹ではじめます。 ・にんにくの表面の色が変わった頃に、きざみ大根菜をフライパンに投入して、焦がさないように中火で炒めます。 ・パスタは固めに茹で終え(所要の茹で時間よりも30秒ほど短めがよろしいかと)、鍋から直接フライパンに移します。(茹で汁は残しておいてください。) ・パスタと炒めたきざみ大根菜を均等に混ぜて、パスタの固さを確かめ、固いようならば茹で汁をおたまに1杯ずつくらいのペースで、フライパンに入れて、固さを調整します。(固さはお好みでOK!) ・お皿に盛り付けて、最後に釜揚げちりめんを載せれば完成です。

高知城歴史博物館③

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徳川秀忠が土佐二代藩主山内忠義に宛てた土佐一国領知の朱印状。 戦国期の大名間の書状とは異なり、とても上質な紙が用いられています。 この類の書状には、おもて高(土佐国一国なら二十万二千六百石)を書くということを知りました。 二番目は徳川綱吉が土佐四代藩主山内豊昌に宛てた朱印状。 最後は、徳川綱吉が山内豊昌宛てに、土佐一国二十万二千六百石のうち三万石を山内大膳亮に分け与えることを許可する書状。

高知城歴史博物館②

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さすが、土佐山内家と感心させられる逸品がそろっています。

高知城歴史博物館①

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仕事の関係で、週末に自宅に帰れず、高知に滞在することになったため、休日を利用して、高知城歴史博物館を訪問。 高知城下東南角地の追手前通りに面した場所に立地。 あまり予備知識を持たず、高知の戦国期から明治維新くらいまでをまとめた博物館かな?と思いながら、入場。 基本的にはいまの高知城の城主だった土佐藩主山内家を中心としており、山内家所蔵の資料や刀剣、甲冑などなどを多数展示。 土佐国内の実高を記した地図や土佐一国領知に関する将軍からの朱印状などはとても充実。 大名に対する将軍の朱印状というのは初見でしたが、厚手の上質な和紙に流麗な書体で印された書状はなかなか価値があります。 一国兼光を所蔵しているそうだが、タイミングが合わず、拝見できず。残念無念。 まずは、地図関係の展示で印象に残ったものです。

ふるさとチョイスで四万十地栗モンブラン!

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全国ネットのテレビでも紹介された『四万十地栗モンブラン』を食べたくて、ふるさとチョイスで検索してみたところ、ありましたー。 一万円の寄附で四万十地栗モンブラン8個入りのお礼が貰えるということなので、一万円の寄附を決定! 寄附の手続き終了から2週間程度で、冷凍の四万十栗モンブランが自宅に到着。 中身を開けてみると、とっても小さなプラスチックカップに入った8個の四万十地栗モンブランが出てきました。 見た目の第一印象は『かなり小さいなぁ…。』です。 これで定価400円はなかなかの高級品です。 お味は四万十地栗の味わいを濃厚に感じられる2種類のモンブランペーストが重ねられており、とても美味でした。 たぶん、四万十地栗そのものの味が濃厚で、かつ、相当に甘味があるのでしょう。モンブランペーストは純粋な栗の味でできあがっていると感じました。 このペースト作りはかなり手間が掛かっているでしょうから、定価400円も致し方なしというところでしょうか。 次は、夏に向けて、鰻を探すぞ!

高知の空は晴れました

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高知城が青空を背景に聳えています。 梅雨明けです。 大雨でした。

秘境駅 土讃線の新改駅

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 特に秘境駅巡りを趣味としている訳ではないのですが、先日、たまたま土讃線の新改駅というところに行く機会がありました。  一部の事情通の方々には相当有名な駅らしく、スイッチバックという方法で駅に出入りするというのが、なかなか珍しいということです。  確かに、土讃線の本線から線路が分岐したところに駅があり、駅の向こう側で線路が行き止まりになっているので、この新改駅に入った汽車はおそらくバックで土讃線本線の線路に戻るというのが想像できました。  普通列車しか止まらないので、駅の入口にある時刻表もいたってシンプルです。  新改駅へのアクセス道路もたった1本で、その道路も新改駅で行き止まりになっています。  新改駅から山を下りたところに人家が散見され、廃校になった小学校を利用した公共施設もあるのですが、新改駅の周辺には民家はないため、この駅の利用者は自動車を持っている人しかいないのでは…、と感じてしまいました。  秘境駅のテレビ番組で取り上げられないかなぁ。 (新改駅の駅舎) (時刻表) (駅の奥は行き止まり) (駅から本線を望んでいます) (駅の看板です。しげとうと書いていますが、線路は行き止まっています) (駅の端っこまでいくと、よく本線が見えます) (時刻表)

閑谷学校

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ヤクルト岡山和気工場の工場見学に行った後、近隣の閑谷学校に立ち寄りました。 ヤクルト岡山和気工場はパッケージングの工場で、ヤクルトの原液は兵庫の三木工場で生産されているということを初めて知りました。 乳酸菌シロタ株の説明、ビフィズス菌と大腸の関係など、たくさん勉強しました。 ヤクルトに含まれる乳酸菌シロタ株は小腸に、ミルミルに含まれるビフィズス菌は大腸に効果的であるという基本的なことを勉強しました。(間違っていたらすいません) 工場は自動化が進んでいて、機械・ロボットがどんどん作業を進め、ヤクルト容器の作成から、ヤクルトの調合とパッケージングを流れ作業で行っていました。 午前中1時間で工場見学が終わり、昼食を取ったあと、せっかくここまできたからと、観光名所を探したところ、「閑谷学校」を車で15分くらいのところに発見。 「閑谷学校」といえば、わたしは山田方谷と河井継之介を連想するのですが、具体的にどういうゆかりがあったのかを思い出せず、現地に到着。 「閑谷学校」のHPによりますと、 閑谷学校は江戸時代前期の寛文10年(1670)に岡山藩主池田光政によって創建された、現存する世界最古の庶民のための公立学校です。初めて閑谷の地に来観した池田光政は、「山水清閑、宜しく読書講学すべき地」と称賛、地方のリーダーを養成する学校の設立を決めたのです。この学校の永続を願う藩主の意を受けた家臣津田永忠は、約30年かけて、元禄14年(1701)に現在とほぼ同様の外観を持つ、堅固で壮麗な学校を完成させました。 とのこと。新緑の樹叢と芝生を背景に佇む閑谷学校の建物は古色を帯びて壮観です。 ぜひ、新緑の季節に訪れることをお勧めします。 ちなみに、山田方谷の説明看板に河井継之介が出ています。 岡山城下からはかなり距離があるのですが、どのようにして通学したのか…。

しまなみ海道(追補)

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平成29年11月頃、大三島周辺をランしたので、その際の写真を掲載! 冬の快晴をバックに斜張橋! 因島大橋だったかな。 いや、斜張橋といえば、多々羅大橋でした。 宿泊は民宿なぎさ。瀬戸内の海の幸をふんだんに使った食事が美味しくて、ボリューム満点。お腹いっぱいいただきました。 ランはなぎさに泊まった翌朝で、なぎさの駐車場に車を停めて、往復10km程度を目標に設定。結果的に片道5km程度で多々羅大橋を通過して、サイクリストの聖地と呼ばれる道の駅「多々羅しまなみ公園」に到着して、そこでUターンしました。 ランのあとは、汗を流すために多々羅温泉に入りました。 清掃・整備が行き届いた綺麗な温泉でした。 隠れた良心的温泉施設という感じです。

しまなみ海道

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しまなみ海道を尾道側から観光。 我が家の自動車のナビゲーションが古いので、山陽道を福山東ICで下りればいいのか、福山西ICで下りればいいのか、わかりにくかった。 結局、福山東ICで下りたため、結構、一般道を走ることになったが、結果論的には大きな渋滞に巻き込まれなかったので、正解だったかもしれない。(福山西ICの方はナビ上では渋滞マークがついていた) 道路標識がわかりにくいので、NEXCO様、少々改善の余地があるかも。 尾道大橋がかかる狭い海峡を渡ると、いま話題の向島。 高速バスの停留所には警察官が立っており、物々しい雰囲気。 改めて向島を眺めてみると、結構、町も大きく、それでいて山林も多いため、捜査が難航するのも分かるような気が…。 とりあえず、向島を通過し、布刈瀬戸に架かる因島大橋を渡って因島へ。 「万田酵素」で有名な「万田発酵」の工場見学に。 健康食品の「万田酵素」にも興味があったが、植物に与える「万田アミノアルファ」にも興味あり。 工場見学では、まずは基本の「万田酵素」の製造手順を聞き、その後、植物栽培の見学、直販店での試食をしました。 万田アミノアルファを使って育てた大根の大きさが感動的で、万田アミノアルファ1Lを約5千円で購入。 我が家の家庭菜園の夏野菜に早速使いたい。 その後、因島水軍城を観光。 水軍城なので海が一望できるのかと思いきや、海は視界に入らず。 ただ、かなり峻険な山城という印象を受けた。 大塔宮の令旨をはじめ、毛利家に所縁のある書状 や刀剣(銘正信)、甲冑など 展示品はかなり貴重なものも多いように感じました。 昼食はたべろぐで探索して、「萬来軒」でラーメン+チャーハン。 googleMapで調べると、幹線道路沿いにないようにも見えたのですが、きちんと幹線道路沿いにあり、駐車場も余裕があったので、すんなりと入店できました。 昔ながらの素朴な味わいのラーメンで、とても美味でした。 次は、生口島で平山郁夫美術館へ。 何度みても平山先生の深みのある青色と、鮮やかな黄色は 素人のわたしでも 本当に美しいと思います。 アンコールワットの月、しまなみ海道五三次、天かける白い橋瀬戸内しまなみ海道、破壊されたバーミアン大石仏などなど展示品をじっ...

950(1504-1520)_永正年間

 文亀 4 年 (1504)2 月 21 日、蓮乗 ( 本願寺蓮如の次男 ) が越中井波の瑞泉寺 ( 富山県 ) で逝去。享年 59 歳。  永正 1 年 (1504)2 月 30 日、文亀から永正に改元。  永正 1 年 3 月、細川政元が、それまで軍事を任せていた赤沢朝経を討伐しようとする。 // 赤沢朝経は逃れる。  永正 1 年閏 3 月 15 日、室町将軍足利義澄が、山科の本願寺に赴き、一泊。  永正 1 年 8 月、越前の朝倉元景 ( 朝倉氏の一族 ) が加賀国の本願寺勢力と結び、越前への侵攻を図る。 // 加賀国境で撃退される。  永正 1 年 9 月 4 日、摂津守護代薬師寺元一が、管領細川政元に背き、山城国淀城に籠り、細川政元の隠居と澄元の相続を求めた。 // これに赤沢朝経も同調。この頃、京都内外で土一揆が放棄したため、足利幕府は一揆の要求を受け入れ、徳政令を出す。  永正 1 年 9 月 19 日、細川政元の命により、薬師寺元一の弟長忠が、謀反した摂津守護代薬師寺元一の山城国淀城を攻略。元一は殺され、長忠が摂津守護代に任じられる。赤沢朝経は許される。  永正 1 年 (1504)10 月 3 日、越後守護上杉房能と守護代長尾能景が、関東管領上杉顕定を助けて、上杉朝良の籠る河越城 ( 埼玉県川越市 ) を攻める。 // その後、房能・能景は上杉朝良方の属城武蔵国椚田城 ( 東京都八王子市 ) 、相模国真田城 ( 神奈川県平塚市 ) を攻略する。  永正 1 年 12 月 18 日、畠山尚順と細川政元・畠山義英が和睦。 // 尚順はまたも河内に侵攻し、細川政元の後ろ盾で畠山氏を相続した義英を攻撃。政元は薬師寺元一の反乱などで義英を救援できず、やむなく和睦。 // この和睦により、尚順が高屋 ( 羽曳野市古市 ) 、義英が誉田に本拠を置き、それぞれ河内半国の守護になる。 // この処分に義英が不満を抱き、細川政元との間が険悪になる。  永正 2 年 (1505)3 月 15 日、山科本願寺において本願寺蓮如の七年忌が開催される。  永正 2 年 8 月 10 日、本願寺実如が、門徒衆に、蓮如の御文を与える。  永正 2 年、山城国守護代香西元長が、管領細川政元に背き、山科で放...