磁場の井戸:第四章 対岸(六)/長編歴史小説

 加茂城には毛利家から派された桂民部大輔広重が城主として入城していた。加茂城は小さいながらも、本丸、西の丸、東の丸の三つの郭を有し、城主として送られた広重は、当然の如く、本丸を守っていた。
 その加茂城本丸の大手門前に東の丸の守将生石中務が松明の灯りに照らされて立っていたのは、この朝が明ける前の夜更けだった。
「生石中務でござる。民部大輔殿にお話したいことがあり、参った。開門。」
暗闇の中を良く通る声で生石が大手門上の櫓に見え隠れする門番に向かって叫んだ。
「このような夜分にお話とは何事でございますか。」
「民部殿のお耳に入れておきたいことがあって、参ったまでだ。」
門番は生石に、暫くの間、待つように告げると、開門の是非を確かめるために物頭に人を走らせた。門前に立つ影は確かに門番自身も見覚えた生石の影であり、昨日までならば門番は開門して、彼を招き入れていたに違いない。しかし、この日に限り、ある部将が、
「近頃、夜番の兵達の動きを見ておると、どうも気が緩んでおる。長の篭城では、何かと気が緩みがちになってしまうが、そこが敵の付け入る隙となることも多い。今夜からは、再び気を引き締めて、門を守るようにいたせ。」
と厳命したばかりだったので、一往、生石の来訪を夜番の物頭に知らせ、裁断を仰ぐことにした。
 しばらくすると、生石の頭上から厳しい声が降って来た。
「籠城の真っ最中でござる。夜更けに不用意に開門はでき申さず。火急の御用でないのなら、明朝にしていただきたいとのことでございます。」
門番の返事は籠城中の城としてはしごく当然と言える反応だったが、生石の受け取り方は違っていた。
(悟られたのか。)
生石は直感的にそう誤解した。この男は加茂城の東の丸を預かっておきながら、秀吉方に通じていた。すでに内応の手筈は整い、宇喜多勢を城中に導き入れる時を計っていた。彼は、その塩梅を確かめるべく、夜更けにもかかわらず、本丸の大手門を叩いた。脛に傷を持つと、兎角、疑心暗鬼に陥りやすくなるもので、生石は門番の応対に過敏なまでに反応し、本丸に尻を向けると、脱兎の如く、鞭を上げて東の丸へ駆け去った。
 東の丸に戻った生石は、事は露見したと勘違いしたまま、露骨な反逆行為を始めた。まず、寝静まっていた兵達を叩き起こし、郭全体が臨戦体制に入った事を告げ、垣盾や逆茂木を設け、弓、鉄砲を城壁に押し並べた。むろん、敵はこの城の本丸にある。その間、本丸の様子を気に掛けていたが、それほど変わった様子は無い。
(まだ、悟られてないのかも知れぬ。しかし、ここまでやれば、露見するのは時間の問題だ。いっそ、今が内応の好機かもしれん。)
生石はそう自分を叱咤し、夜明け前に、兵達に兵糧を使わせた。
 桂広重は東の丸の異変に気付いた夜回り番からの注進を受け、美しい星霜の下で、せわしなく動く東の丸の無数の黒い影を眺めながら、寝静まった城兵達を起こして、命じた。
「東の丸に謀叛の動きがある。明朝から戦になるやもしれぬ。守りを固めよ。ただし、下に悟られぬよう、静かに手筈を整えよ。」
広重の命により、将兵達は、最小限に抑えた篝火の弱い照度の元、塀際に鉄砲を防ぐための米俵を積み重ね、本丸の守りを固めた。
 生石は東の丸の支度が十分に整ったことを確認し、夜の明けきる前に宇喜多勢を招き入れるための使者を備中の野径に走らせた。そして、
(本丸の手筈が整う前に、襲いかかるのが上策。)
と考え、宇喜多勢の揃うの待たず、手元にある兵で本丸に攻め掛かることを決断した。
生石は手勢を率いて本丸に近づき、戦闘体制の整わぬ城内に向かって鉄砲を撃ち掛けた。つもりであったが、案に反して、本丸から激しい銃声と鉛弾が、攻め寄せた東の丸の将兵の頭上に雹のように降り注がれた。寄せ手の先鋒は思わぬ反撃に驚き、味方の死体を踏み越えて後方へと退こうとしたが、陸続と圧して来る後続と衝突し、意思に反して加茂城本丸へと押し返されて行った。
 先鋒の混乱を尻目に、後方の寄せ手は宇喜多勢の加勢に勢いづいていた。さらに、宇喜多勢に続いて、東の空が朱色に染まり始めると、織田勢の小隊が次々と加茂方面に進発し、加茂城攻略への意気込みを示し始めた。
 加茂城の火急を聞き、日差山の隆景の陣では、元春が山麓の様子を見つめながら、東の空を淡い白桃色に染めている太陽が、中天に至る頃に始まるかもしれない、織田勢との一大会戦の策を頭の中で思い巡らしていた。
「大戦になるやもしれんな。このまま、敵が加茂に向かって動いてくれれば、こちらも野に降りて、槍を交えねばなるまい。」
「まことに、これが好機かも知れません。民部が寄せ手と互角の戦を演じてくれれば、この戦、こじれるでしょう。そうなれば、織田勢はさらに寄せ手の増強を図るはず。そのときこそ山を下り、織田勢と槍を交えても宜しゅうございましょう。」
両川は、安国寺恵瓊という外交僧を召喚し、和睦への道を模索しながらも、その和睦を有利に進めるための材料として、織田勢に対する局地戦または会戦の勝利という事実を欲していた。でなければ、蛇に睨まれたままで、油を搾り取られて行く蛙のように、次々と付け城を落され、最後には丸裸の本陣と湖の上の高松城だけが残り、良くて屈辱的な降伏を余儀なくされ、最悪の場合には大軍に捕捉され、擦り潰されるようにして殲滅される可能性があった。
 先刻まで東の空に薄い朱を滲ませていた夏の太陽は、いつのまにか青い空の中で黄金色に輝いていた。既に加茂城は煙と土埃に包まれ、両川の耳朶に剣戟の響きを錯覚させるほどに戦気が噴き上がっている。日差山にほど近い野道を織田の軍勢が一団また一団と南に向かって下っていた。

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