磁場の井戸:第四章 対岸(五)/長編歴史小説

 日幡城が落城した日の夜、久方ぶりに七郎次郎が宗治の元にずぶ濡れの姿で現れた。
「無沙汰であったな。」
宗治は久しぶりに見た七郎次郎の顔に向かってそう言った。外界の出来事を早く知りたいと言う心中とは裏腹に、宗治の口調はなぜか落ち着いていた。七郎次郎が自分の前に姿を現した事は、既に宗治の欲求を満たす十分条件となっていた。
 七郎次郎は、濡れた頭髪から止めどなく滴り落ちる水滴を気にも留めず、片膝をついたまま、宗治の前で顔を伏せていた。七郎次郎の座っているところにだけ、黒い染みのように水溜まりができていた。七郎次郎はそれでも動くことなく、宗治の次の言葉を待った。
「外の戦は如何であった。」
宗治はそんな言葉で自分の求めるものを七郎次郎に対して表現した。
「日幡が寝返り、本日、その日幡を毛利勢が奪還、城を焼き払いましてございます。」
七郎次郎は顛末の末から話を切り出した。そこから、宗治は一部始終について七郎次郎に問うた。宗治は湖水の対岸で展開された事実を遅れること一日で知った。日幡六郎兵衛が上原元祐に殺された事、そして、日幡の城が地上から消滅した事を…。そして、これらの事実という液体の中に身を浸し、体中に染み込ませながら、思っていた。
(それでも秀吉は動かぬか。)
 七郎次郎は、思案に入った宗治の顔を、無言で見つめていた。宗治は漆黒の闇を見つめ続けていた。
(秀吉は、この高松を落とす事に全精力を注ぎ込んでいる。)
秀吉は今や天下に聞こえた織田信長の一手の大将である。その秀吉をここまで引き付けている高松城にあって、その城主を務める自分に少なからぬ興奮を感じると同時に、宗治は鎖で繋がれたように身動きの取れない自らの境遇を心中で嘆く以外にやるべきことのない自分にもどかしさ感じ続けていた。

 それから数日後の夜明け前、再び鉄砲の音とともに、備中の野に黒煙が上った。
(次は何か。)
宗治は思うと同時に、櫓へと昇る梯子に手をかけていた。黒煙の出所はどうやら加茂城の辺りと予想がついた。夜明け前の薄明かりを切り裂くような乾いた鉄砲の音が、遠近の草の上の朝露を震わせた。
 宗治は隆景の本陣日差山と加茂の方角を繰り返し、見比べるようにして、毛利勢の様子を覗い続けた。加茂から上がる煙は、時を経るに連れて次第に激しく、濃くなっている。一方、日差山の方角はどっしりと根を生やした大木のように動き出す気配さえ感じられなかった。軍旗は、昨日と同様、初夏の水気を含んだ風に悠々と翻り、その下にいる将兵達にも活発に動き始める気配は漂っていなかった。
「御本陣が動きませんな。」
夜明け前ながらも、只ならぬ気配を感じた末近信賀が、いつの間にやら宗治の側に寄り、声を掛けた。
「加茂城の事、大事ないのかも知れん。」
「織田勢も昨日からそれほど動いておるようには見えません。この分では、あの煙は小競り合いかもしれませんな。」
信賀は殊更楽観した様子で宗治に言った。宗治は信賀の言葉に頷きもせず、また、首を振ることもせず、未だ暗い備中の野に鳴り響く鉄砲の音に耳を傾けていた。

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