磁場の井戸:第四章 対岸(十)/長編歴史小説


 その夜陰、宗治のもとに濡れねずみのような七郎次郎が再び現われた。既に城の主な部分は水面の下に沈んでいた。宗治は城内の最も高みにある物見櫓へと七郎次郎を誘った。時ならぬ洪水により、行き場を失い、楼上に群れ集った鼠や虫たちが、二人の気配を察して、不快な蠢きと音を立てながら、櫓の天井へと逃げ込んだ。

「無沙汰でございます。」

七郎次郎は宗治に静かに挨拶した。普段から七郎次郎の声は暗闇の中に溶け込むようだったが、宗治の耳朶には今の七郎次郎の声が、普段にも増して、低く聞こえた。

「加茂が落ちたか。」

「御意。」

七郎次郎は宗治に返答した後、高松城の彼岸で起きた加茂城の謀叛劇の一部始終を宗治に伝えた。

「そうか。」

宗治は感情を感じさせない乾いた呟きを一言だけ発した。ただ、加茂城が落城したという事実に対してそう答えてみただけだった。

 宗治は暗い空を仰いだ、薄い雲烟の向こうに柔らかい白光を放つ月がぼんやりと浮かんでいた。宗治は視線だけをその月に向け、心中で叫んでいた。

(それでも、まだ、秀吉という男は動かぬか。)

すでに秀吉は自分が動く必要の無いことを知悉しているのだろう。秀吉が動かなくても、湖水という鋼鉄の鎖が高松城という肉塊を締め上げ続ける。その鎖は、時間の経過とともに肉塊に深くそして強く食い込み、既に、高松城という肉塊は大量の血を滴り落とし、瀕死に近いまでに衰弱している。
 既に両川対秀吉の戦は高松城の湖水の対岸で演じられていた。本来、主役であったはずの宗治の存在、そして、彼の焦燥の如き感情や想いは大勢には全くといっていいほど関わりが無くなっていた。しかし、舞台への出番を待ち続ける宗治の知らないところで、台本がすり替えられることによって、宗治自身の運命が時代という大河の、人間では抗うことのできない大きな流れの中に飲み込まれようとしていた。

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