磁場の井戸:第五章 死神（二）／長編歴史小説

　それから半刻も経ず、隆景のもとに岩崎山の元春から三沢為虎以下山陰衆数人に謀叛の噂があるとの知らせがもたらされた。隆景は、有能な武将として、為虎の名前を頭の片隅に記憶していた。

（為虎は兄に心服しているときいていたが、謀叛とは誠か。）

一報に接した隆景は疑問を禁じえなかった。心に湧いた疑問を使者に直接ぶつけると、隆景が思っていたとおりの返事が返ってきた。

「元春も、そのような事はない、と考えております。今、岩崎山において方々に噂の出所を突きとめております。」

人物眼についても、甘くは無い兄元春の言は信用するに足りた。隆景は確信を持って使者に言った。

「おそらくは秀吉の放った間者どもの流言の類に相違なかろう。しかし、…。」

そして、隆景はその後に続くべき言葉を飲み込んだ。隆景はこの流言により兵士達が動揺し、武将達の間に疑心暗鬼という不協和音が芽生えることを恐れた。

　隆景の脳裏に今と酷似した経験がよぎった。

（あれは、月山冨田城攻めのとき。）

生前の元就は、当時難攻不落と呼ばれた尼子氏の堅城出雲国月山冨田城を攻略すべく、陣を進め、その後、城を遠巻きにして、無理な力押しをせず、縦横無尽な調略を施す以外に何事も為さず、傍目には路傍の石と化して城内の崩壊をじっくりと待った。そのとき、隆景は強者の立場で城内の瓦解の様子を眺めていた。今は、そのときとは逆に、隆景は弱者の立場で、秀吉の調略の渦中にいた。

（さすがは秀吉。こちらに欠けたるところあれば、したたかについてくる。此方は全てが後手だ。）

隆景は一枚も二枚も上手な秀吉の軍略に圧倒され、それに翻弄される自分の惨めさを感じていた。

　隆景は善後策を立てるべく、兄元春に再来を乞うた。元春は、元長を伴い、再度日差山を訪なった。元春らを待ちかねた様に隆景は、先刻の評定を覆した。

「このような流言が蔓延っては、全軍挙って秀吉を攻めるわけには参りますまい。まずは、とり急ぎこの日差山の陣を固め、返り忠起こらば、すぐにでも陣に退き篭もれる様に致しておくことが寛容かと存ずるが、兄上如何であろう。」

「わしの所存も同じだ。されば、事を急がねばなるまい。刻を移せば、高松城を救う期を逸するのみだ。」

三人は軍議を進め、本陣を固めるために、日差山山頂に隆景本陣を移す事とし、隆景、元春の旗本衆のみで固める事とした。さらに、士分から足軽、雑人に到るまで、木を一本づつ持って日差山に登り、その木をもって柵を縫い、そして、各々、手を尽くして、堀を深く穿ち、日差山の山頂に堅固な防御陣地を構築する事とし、その完成を待って、すぐさま織田勢の陣地に向かって突撃する事に決した。

　軍議を終え、元春、元長父子は自陣の岩崎山へと下っていた。その途次、それまで黙々と馬の背に揺られていた元長が、突然傍らの元春に向かって耐えかねたように言った。

「父上、わたくし、所用を思い出しましたので、これにてお別れ致します。先に御帰り下さい。」

言い終えると、元長は馬に鞭を呉れ、一目散に駆け去った。

（為虎に会いに行くのか。まさかとは思うが、山陰衆を一つに纏めておくには、荒療治は致し方あるまい。）

元春は所用の意味を薄々と察していた。元春は、心の動揺とは裏腹に、まるで年端の行かない息子が近所に遊びに行くのを見送るような軽い表情で、小さくなっていく元長の姿を見つめ続けていた。

　元長は岩崎山の麓にある三沢為虎の陣内に馬を乗り入れ、為虎の姿を求めた。元長は、為虎を見つけると、軽快に下馬し、脇目もふらず、六尺にも及ぶ体躯で風を切るようにして、為虎に歩み寄った。

　為虎は近づいて来る元長の形相に只ならぬ気配を感じ、その勢いに飲み込まれるようにして、元長に勧められるまま大木の根元に胡座を掻いて座った。元長は為虎の隣に腰を下ろし、地の底からゆっくりと沸き上がるような低い声で、自らの発する一言一言を確かめながらゆっくりと問うた。

「お主が秀吉と通じておるという噂がある。わしは事の真偽を確かめに参った。もし、誠、通じておるならば、この素首を土産に秀吉の許に走るが良い。」

否応言わせぬ気迫で為虎に迫った。為虎は驚愕し、そして憤激した。

「情けなき仰せかな。この為虎、元就公に従って以来の厚恩、片時も忘れることなし。毛利家に弓引くなど、毛頭考えたこともございません。もし、それがしに二心有りと御疑いなら、この腹かっさばいて、我が赤心をご覧に入れましょう。」

言いながら、為虎は、すでに、鎧通しを抜いていた。元長ははたと為虎の右手を掴み、詫びた。

「お主の存念、良く分かった。故無き流言に惑わされ、お主の心根を疑いしこと、わしの不徳の致す所じゃ。許せ。」

元長は為虎の真意を確かめた後、岩崎山へ馬の鼻を向けた。