峡の劔:第一章 峡(かい)(2)


 源平の昔、讃岐屋島で源義経に破れた平氏の主力が瀬戸内海を西へと落ちる中、平清盛の甥で、平氏随一の猛将と称された平国盛の命により四国に留まった一族があった。その一族は、国盛の寵姫となり、国盛の種を宿した同族の女性を守り、讃岐の山中へと逃げ込んだ。国盛は生まれてくるはずの赤子に自分の形見として一振の宝剣を授け、一族の長老に託した。
 国盛から寵姫と宝剣を託された一族は老若男女五十人程の一団となり、源氏の追手や落武者狩りの山賊などを退けながら、讃岐国の南方に横たわる山嶺を越えた。それでも執拗な追跡を振り切れず、一族はさらに阿波の大地を東西に貫流する吉野川を渡河して、その南側に横たわる広大な山岳地帯へと迷入し、菜種梅雨に濡れる深い樹林を掻き分け、重く冷たい残雪と多量の湿分を含んだ腐葉土に足を取られながら、人間が容易に踏み入ることのない急峻な山岳の深奥に至った。一族の男達は寵姫と足弱な女子供達を守るため、年齢の順に殿軍(しんがり)して犠牲になり、源氏の追手を足止めして、逃走の時間を稼いだ。また、深い山中で冷気と残雪の氷結に足を取られて滑落した者、満足な食事を得られないまま罹患して落命する者なども出て、一団は二十名弱にまで減少した。そして、国盛の寵姫も雨中の悪路行と追捕という肉体、精神双方の緊張と圧迫により、赤子を流し、彼女自身も失意の底で息を引き取った。
 残された一族が沈鬱な面持ちで、荼毘に付される寵姫の亡骸を、無言のまま囲んだ。荼毘の煙が、深い森の樹冠と枝葉の間を抜け、蒼天へ垂直に立ち昇る。それは天上から垂下された一筋の糸となって、寵姫の魂を天界へと導いているようだった。その煙の糸が尽きた頃、生き残った一族の最年長者が悲壮な口調で説き始めた。
「国盛様の命により、姫様とやや様を守護し奉り、源氏の追跡を振り切って、この僻陬の地まで逃れてきたが、お護りすべき姫様とやや様を失った以上、もう追手の影に怯えながら、逃げ続ける必要もあるまい。事ここに至った上は、この地に踏み止まり、襲来する追手を全力で迎え撃ち、一人でも多く地獄の道連れにして我々一族の意地を見せようではないか。」
 長く苦しい逃避行で心身ともに衰弱した一族全員がその言葉に賛同した。
 潔い死を選択した残党達は寵姫が息を引き取ったこの場所を拠点と定め、襲撃者に備えた。天空に向かって真っ直ぐに立ち上がる針葉樹の幹を柱に見たて、その周囲に土を堆く盛り立て、風倒木を組み、枯芝を積み、数日で風雨をしのぐ俄作りの小屋を作った。粗末な小屋ではあったが、自分達が拠って立つべき場所を得たことで、一族は生気を取り戻した。
 数日後、一族はその小屋に参集し、国盛に授かった宝剣を簡素な祭壇に祀り、寵姫と赤子、そして、この場所に至るまでに落命した者達の法要を催した。
 催事の途中だった。突然、一陣の暴風が小屋を襲い、枯芝を積んだだけの小屋の天井と壁を吹き飛ばした。
 屋外は法要前の晴天を忘れたように濃霧に包まれていた。柱だけが残された小屋に雲霧が流れ込み、視界を奪った。直後、霧中に亡くなったはずの寵姫の声が響いた。
「わたし達は仏様の思召しにより黄泉へと旅立つことになりましたが、ここまで本当によくわたし達をお守りくださいました。感謝の印として国盛様からやや様にお授けいただいた宝剣を、皆様にお譲りいたします。この霊剣が一族をお守り下さるでしょう。」
 声が終わった瞬間、祭壇に霹靂が走り、寵姫の影が白煙の中に一瞬だけ浮かび上がった。
 一同はこれを神託とし、宝剣を一族守護の御神体として祭祀した。
 その後、この場所に定住した一族は、鹿や猪、兎、雉などの鳥獣を狩猟し、木の実や山菜を採取し、日々の糧に充てながら、いつしか、血縁関係に基づき五つの部に別れ、長い年月をかけて急斜面の樹林を伐開し、山肌を削り取り、土砂を盛り立て、小さな畑を造成して幾ばくかの作物を育てるまでになった。
 源氏の追手が襲来すれば、寵姫が亡くなった時に誓ったとおり、斬り合って討死する覚悟は持ち続けていたが、幸運にもその機会を得ることなく、数代を経た。
―これも宝剣のご加護。
 一族は、敬意を込めて、この宝剣を「御劔」と名付け、益々崇拝し、峡衆全員が協力して掘削した小さな洞穴に結界を張って安置し、小祠を建立した。
 その後、急峻な斜面に貼り付くように生き続けざるを得なかった峡の住人達は、この土地に流れ着いて以降、自然と共生する中で、冬は高地の豪雪と極寒、夏は暴風雨や旱魃など過酷な自然に身を埋(うず)めつつ、ある時は自然に身を任せ、ある時は抗いながら心身を鍛練し、いつの頃からか高度な身体能力を身に付けた。
 時代が下り、源平の相克が世間の記憶から忘れ去られた頃、一族の中でも特に身体能力の優れた者達が俗世に下りて、裏世間の稼業に就くようになった。しかし、この一族は、月並みの忍びなどとは違い、祖先達が源平の乱世で経験した、
―諸行無常、栄枯盛衰、勝者必滅。
という普遍的な教訓を忘却せず、毀誉褒貶の俗世にあっても、
―仁義を忘れず、裏切らず。
という掟を貫いた。さらに、この一族はその能力の高さゆえに、俗世において僅かな痕跡も残さず、人々に知られることも殆どなかった。
 それでもこの里の存在を知るごく限られた人々がこの一族を、
―峡衆。
と呼び、義に背かぬ異能集団として、また、融通の効かぬ頑固者として密かに語り伝えた。
「それが、峡の歴史じゃ。」
 清太は甲丞を喰い入るように見つめ、その物語を細大漏らさず記憶に刻んだ。
「わしから聞かせる話はここまでだ。」
 語り終えた甲丞は清太に待つように命じて、広間を出た。
 甲丞が一本の杖を手にして広間に戻り、清太の正面に座って、拳ごと杖を突き出す。
「撰別じゃ。この杖を帯びて俗世へ旅立て。」
 清太はその杖を両掌で恭しく受け取る。そして、指示されるまま、杖の上部にある小さな金具を外して、杖頭(つえがしら)辺りを右拳で握り、杖の中程を左拳で押さえて、二つの拳を一気に左右に広げる。杖の中から繊美な両刃の直刀が現れる。
「我が家に代々伝わる杖剣だ。清太の腕前ならば、自在に操ることができるだろう。」
 清太は冴え冴えと艶めく刀身を杖に収めて、自分の右脇に置き、
「ありがたく頂戴します。甲丞を継ぐ者として必ずや御劔を持ち帰ります。」
と、祖父に感謝と決意を告げた。

 翌朝暁闇、澄んだ星空が朝焼けの紅色に染まり始める直前、
―見送りは旅立つ者に陰の気を及ぼす。
という峡の慣習に従い、清太、弥蔵、そして、丙部の亥介と総馬が誰にも見送られることなく、静かに出立する。
 険しい山岳地帯の最奥に位置する峡では極めて短い盛夏を過ぎると、すぐに針葉が濃緑を増す秋が訪れる。
 峡の南側直上に屹立する霊峰剣山を見上げると、短い夏を謳歌した膝丈ほどの熊笹が山肌一面を被覆する。峡の高度を境界にした明瞭な植生の変化は、人が越冬できる生活圏の境界を示すと、峡では伝えられている。
 清太達一行は獣道さえもない急峻な自然斜面を転がり落ちるように駆け下る。もし、この一団を余人が見れば、野獣の群と見誤るような俊足である。大木が乱立し、厚い枝葉で覆われた樹冠で陽光が遮られた暗く急峻な斜面の先に、清太達は次々と足場を見つけながら、的確に両脚を踏み出していく。幼少から峡周辺に広がる深い樹叢を飽きるほど疾駆した経験が目印のない山中にあっても方角を見誤らせることはない。
 半日ほど艱険な山岳斜面を疾駆し、岩肌から清水の湧き出る場所を見つけて短い休息を取る。清太は冷涼な湧水が喉元を通り抜けていく時の心地よい感覚を味わいながら、成熟の峠を越えつつある落葉樹の濃厚な緑を眺望する。
 弥蔵が陽に焼けた顔に微笑を浮かべて、隣の清太に言葉を掛ける。
「若様、ここからはさらに暑くなりますぞ。」
 弥蔵は甲部において丞に次ぐ年長者であり、幾度も俗世との往来を重ね、世故にも通じ、何事にも手堅さがある。豊富な経験に裏打ちされた厚みのある人格は、弥蔵の心底にある豊かな温かみと反応して、或る時は清太に親近感を、或る時は適度な緊張を与える。清太は幼少よりこの弥蔵の声に慣れ親しんで成長してきた。
 一行は、霊峰剣山に参籠する無数の修験者達が踏み固めてきた山径を走る。土地の者が「貞光川」と呼ぶ足下の渓流は一昨日の暴風雨により濁流と化し、各所で白い飛沫を上げる。一行は濁流に沈んだ一部の小径を迂回するため、ある時は懸崖を登り、ある時は深い樹叢に分け入る。
 小さな集落が清太の視界に入る。
 山仕事を中心に生計を立てている集落で、剣山に参詣する修験者の休憩所も兼ねている。人目があるため、一行は速度を緩める。清太達一行は塗物の木地を作る木地師の出で立ちで、集落に入っても周囲との違和感はない。
 径(みち)は集落を過ぎると、大人二人が並列できる程度に幅を広げる。足下の濁流が剥き出しになった露岩や天上から蹴り捨てられたような巨石を激しく洗う。峡では見ることのない奇岩奇石の織りなす勝景に、清太は俗世に下りるということを改めて実感しながら、この先に広がる世界が自分に恵与するはずの知識と経験への期待、そして、希望に胸を膨らませる。
 集落から離れると一行は再び速度を上げる。
 時の経過とともに、中天を過ぎた太陽が渓谷を挟む険しい山稜に隠れる。谷底から見上げる狭い空は明るく碧いが、谷底にはその光彩は届かず、頭上には山嶺の影が垂れる。陽光が遮られたことで先刻までの噎せるような暑気が急速に和らぎ、足下にある渓流の水面から冷気が湧き上がる。
 渓流が次第に川幅を広げ、鋭利な刃物で削り取ったような両岸の急峻な斜面は勾配を緩めていく。
 川沿いに人間の営みを感じさせる家屋が散見されるようになると、濁流を載せる川幅と頭上の空は大きく広がり、鮮やかな茜色の夕焼けが小波立つ川面を美しく照らす。川の両側に広がる平野を微風が撫でると、風の通り道に沿って稲穂が乾いた音を立てながら揺れていく。
 夕景の中を進むと、北流する貞光川を、東流する巨大な濁流が呑み込む。
「吉野川です。普段であれば広々とした河原を滔々と流れる大河ですが、昨日の豪雨で荒れ狂っています。」
 弥蔵が説明する。
 伊予、土佐、そして、阿波の山塊に降り注いだ大量の雨は、四国山地の急峻な斜面を流下して無数の細流を形成し、さらに集まって渓流となり、大河吉野川へと収斂し、さらに自分自身を侵食、切削しながら大量の濁水を下流へと運搬ぶ。
 荒れ狂う本流吉野川を初めて目にした清太は、人間を寄せ付けない峻厳を誇示する奔流に瞠目する。
「今日の宿はあちらです。」
 亥介が指差す先、既に深い藍色に変化し始めた夜の帳の向こう側にある丘陵の中腹に小さな祠が浮かぶ。
 祠に到着した一行は、祠の裏手で岩肌から湧き出す清水を汲み、汗を落とす。
「明日は吉野川を下ります。」
 亥介の言葉に、清太は暗闇に埋没した吉野川が発し続ける重い音響を聞きつつ、昼間の狂ったような濁流を思い返す。
「自然は我々に様々な天恵を与えるが、時に豹変したように試練を与える。氾濫した吉野川は神々の怒りのようだな。」
 弥蔵は、荒々しい自然に畏れを抱く清太の深長な言葉に、清太の精神を形作っている骨格の成長を感じながら、助言する。
「自然は天地の間にあります。天地に宿る神々が常に人の行為を見ながら、時に恵みを、時に戒めを施します。この濁流は神々の憤怒にも見えますが、静まれば大地を被覆する土に養分を残し、豊饒な稔りの礎となります。」
「何事にも表裏があるように、この濁流にも裏表があるということだな。」
 清太が呟いた。

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