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ニアミス?ではないと思います。

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先日のANA東京→高松の一コマ。 飛行機の窓からみると、遠い空の向こうに飛行機雲が、、、。 旅客機の並走というのはなかなか体験できなかったので、記念に一枚。 今日は富士山が見えなかった。 残念。 あっ、写真が上下反対。 でも、大丈夫かなあ?って何が大丈夫なのかさっぱり意味不明の本日のブログでした。

950(1543)_==天文12年==(旧版)

>_<あくまでも司空流の「こうかも」年表ですので、誤りがあっても司空は一切の責任はとりません。>_< >_<ご利用に際しては、解説・注意をご確認の上、各人で十分に史実をご確認ください>_<  天文12年(1543)、種子島に鉄砲が伝来。  天文12年(1543)、越後揚北衆(鳥坂城主中条藤資、本庄城主本庄房長、平林城主色部勝長ら)が長尾晴景(後の上杉謙信の兄)に従わなくなり、長尾景虎(後の上杉謙信)は兄晴景を助けるため敵に囲まれた三条城(三条市)に入り、ついで栃尾城(栃尾市大野)に移る。  天文12年(1543)、後の本願寺顕如が生まれる。  天文12年(1543)1月21日、大内義隆、出雲宍道の畦地山に本陣を移す。//ここで富田城を眼下に望むことができる京羅木山への移陣について諸将に諮り、進軍に決する。  天文12年2月12日、大内義隆、本陣を出雲京羅木山へ移し、陶隆房は経塚、兵庫頭は三沢為清、三刀屋久扶とともに出雲富田八幡山に布陣//京羅木山は出雲富田城を眼下に望む最前線となる。⇒そのまま3月上旬まで合戦でらしい合戦はなし。  天文12年3月14日、尼子方の大老牛尾幸清、川副久盛ら1千余が、大内方の寄手内藤興盛、毛利元就の連合軍5百余を出雲富田城の菅谷口蓮池縄手で撃退。  天文12年3月下旬、尼子新宮党2千余を率いた尼子誠久、敬久兄弟が新宮谷近くの金屋の洞光寺を攻めた大内方の平賀隆宗、益田藤兼ら5百余を撃破。この際、大内方の吉川興経が横槍を入れ、平賀らは討死を逃れる。  天文12年3月頃、大内義隆、出雲富田城包囲の陣中に京都の神道家吉田兼右を招き神道伝授を受ける。⇒この間、厳島神社や筑前箱崎宮、伊勢神宮、出雲日御碕神社、出雲揖屋神社に戦勝祈願依頼。⇒出雲鰐淵寺にも旧領を寄進。  天文12年4月12日、大内方の毛利元就、隆元父子が出雲富田城の塩谷口に寄せるも尼子軍に撃破される。⇒出雲富田城の大内氏包囲に伴う城麓の局地戦は大内方の敗色が濃くなっていた。  天文12年4月晦日、大内方についていた三沢、三刀屋、本城、吉川、山内らの石見衆、出雲衆が大内氏を裏切り、富田城に入城//大内方に残ったのは毛利、平賀、三吉、福屋、天野、益田など。  天文12年5月7日、大内義隆は出

950(1542)_==天文11年==(旧版)

>_<あくまでも司空流の「こうかも」年表ですので、誤りがあっても司空は一切の責任はとりません。>_< >_<ご利用に際しては、解説・注意をご確認の上、各人で十分に史実をご確認ください>_<  天文11年(1542)1月、大内義隆、出雲国遠征のため、自ら山口を出陣。//養嗣子周防権介晴持、陶中務大輔隆房、杉伯耆守重矩、内藤下野守興盛の三重臣以下、精兵1万5千が従軍。⇒その後安芸国国府で毛利元就ら芸備の兵を合わせて石見路から出雲に向かう。  天文11年(1542)3月初旬、大内勢の出雲遠征の先鋒が石見国邑智郡出羽(イズハ)二ツ山に到着。ここで、益田、福屋、佐波、出羽、小笠原、本城らの石見国人衆が合流。⇒その後、江川の都賀の渡を越えて出雲に入国。  天文11年(1542)4月5日、越後守護上杉定実は隠居を決意し、誓書を守護代長尾晴景(上杉謙信の実兄)に送る。  天文11年6月、大内勢が出雲国飯石郡赤穴の瀬戸山城を攻囲。城主は赤穴光清で、富田城から援軍として田中三郎左衛門が入城//瀬戸山城は尼子1旗の4番目に位置する富田城防衛の重要拠点。  天文11年6月7日、出雲瀬戸山城攻囲中の大内方の先陣熊谷直続が抜け駆けして城に肉薄するも、反撃にあい部下の荒川与三とともに討死。  天文11年7月27日未明、出雲瀬戸山城攻囲中の大内勢4万が瀬戸山城の総攻撃を敢行するも、城主赤穴光清以下の頑強な抵抗のため未の刻(午前2時頃)に総退却。しかし、この日の合戦で赤穴光清が流れ矢に当たり討死。享年5〇歳。//大内勢は数百が討死。⇒赤穴光清討死のため、援軍の将田中三郎左衛門は光清の妻子を助けるという条件で開城。⇒その後、田中はじめ城兵達は同月29日に富田城に到着。  天文11年6月29日、出雲遠征中の大内義隆が本営を飯石郡頓原の由木に移し、兵に休息を与える。  天文11年10月中旬、出雲遠征中の大内義隆が出雲三刀屋ヶ峰に進攻。  天文11年11月上旬、出雲遠征中の大内義隆が出雲八束郡、大原郡の境界高津馬場に転陣するも、嵐のため馬潟(マカタ)の正久寺に陣を移す。//大内勢はここで冬を越し立春の雪解けを待ち、富田城攻略に着手となる。

引退(tie)式

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最近、次々とネクタイが痛み始めた。 先週はネクタイの先端が破れて、白い下地が出ているのを発見。 今週は金色のストライプの織り込みが刷り切れて、紺色の生地と斑になっているのを発見。 ということで、本日、2本のネクタイの引退(tie)式を実施。 敬礼の後、記念撮影! 会社員生活17年、会社に入った頃に買ったネクタイのような気がする。 よく頑張ってくれた。 ご苦労さんじゃった!

タニタ食堂

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出張で江戸へ。 昼食抜きで仕事をした後、近くに「タニタ食堂」があると聞き、13時をかなり過ぎていたので、行列もなかろうと思い立ち、丸の内国際ビルディング地下1階のタニタ食堂まで足を伸ばして見ました。 予想通り行列はなく、店の方がすぐに案内してくれました。 まず、食券を買いました。 色々なメニューがあるのかなぁと思っていたのですが、日替わり定食と週替わり定食の二種類しかないのですねぇ。 しかも、昼食時をかなり過ぎていたので、日替わり定食は売り切れでした。ですので、悩む必要もなく、週替わり定食です。 週替わり定食は「さわらのベジタルタル定食」です。副菜には「モロヘイヤサラダ」と「桜エビのすまし汁」、果物にグレープフルーツでした。 昼休みを過ぎているのに、結構、賑わっていました。会社員ふうの方がちらほら、あとは主婦の方が多いように見受けられました。 食券を購入した後、荷物をテーブルに置き、食事を取りに行きます。自分でご飯をよそい、カウンターで副菜・主菜を受け取って、食券と交換です。 拙者は、店員さんが注文を取りに来て、食事を持ってきてくれるものと思い込んでいましたので、少し驚きました。社員食堂の雰囲気を出したかったのかもしれません。ただ、店内が狭いので、昼ごはん時は大変だろうなぁと感じました。 お食事は美味しくいただきました。すまし汁も適度に味付けされていて、特段、健康食という印象はありません。 サワラはもともと淡白な魚なので、酢の効いたタルタルソースがよく会います。タルタルソースにはたくさんお野菜が入っていてグッド(^^)d モロヘイヤサラダはどちらかというとオクラサラダです。拙者はオクラが大好きなので、OK! 量の割りには900円と少しお高いような気もしますが、丸の内という立地でいえば、ランチとしては相場に近いお値段かもしれませんね♪

高松周辺の桜の名所

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東北地方で桜が満開といった報道と、その桜の上に降り積もる雪の映像が流れています。 冬に逆戻りは、東北地方に限らず、西日本も本日は寒かったですね。 西日本の桜は概ね散ってしまいましたが、来年に向け、今年見つけた高松市内の桜の新名所をご紹介です。 場所は、生島総合運動公園から西へ数分行った「亀水運動公園」です。「亀水」と書いて、何故か「たるみ」と読みます。 昔の人が「垂水」を「亀水」と書き間違ったのでしょうか。 亀水運動公園はテニスコートでーす。半分くらいはテニスコートで、あとは公園と何かの公共施設になっています。 テニスコートと公園を隔てる道路の両脇は桜並木になっていますし、公園には桜がたくさん植えられています。 お花見の人も少なくて穴場感があるスポットでーす。

950(1541)_==天文10年==(旧版)

>_<あくまでも司空流の「こうかも」年表ですので、誤りがあっても司空は一切の責任はとりません。>_< >_<ご利用に際しては、解説・注意をご確認の上、各人で十分に史実をご確認ください>_<  天文10年(1541)1月3日、安芸吉田郡山城を包囲中の尼子勢が相合近辺で小早川興景勢や毛利勢に攻撃される。  天文10年1月11日、大内氏重臣陶が本陣を山田中山から吉田郡山城麓の天神山へ移動//いよいよ戦機が熟す。  天文10年1月12日、尼子方の安芸桜尾城主友田興藤が3島村上水軍と連携し、厳島を占拠。  天文10年1月13日、毛利勢3千が、早朝、宮崎長尾の尼子勢の陣地を強襲。尼子勢の第1陣高尾豊前ら2千、第2陣黒正甚兵衛ら1千5百を破り、第3陣吉川興経1千と干戈を交える。吉川興経がよく防ぎ、勝敗不明のまま日没を向かえる。  天文10年1月13日、陶隆房率いる大内勢が、宮崎長尾の尼子勢を攻める毛利元就と連携し、尼子詮久の本陣を急襲。尼子本陣は手薄になっていたため、総帥尼子詮久の命運も危ういと見えた所に尼子下野守久幸が大内勢に突入し、大内勢の先鋒大将深野重房を倒し、宮川善左衛門ら数十名を討ち取ったが、乱戦の中、力尽きて戦死。久幸が奮迅する間に分散していた尼子勢が本陣に馳せ参じ、大内勢追い散らして、尼子詮久は事なきをえる//この日の合戦で尼子勢4百余人、大内勢470人が討ち取られたという。  天文10年1月13日夜、尼子詮久が安芸吉田郡山城攻めの本営に重臣を集めて軍議を開き、明日の総退陣を決定。  天文10年1月14日、早朝(寅の刻頃)、尼子勢が安芸吉田郡山城攻略から撤収開始//大内勢・毛利勢は退却する尼子勢を猛追し、多大な被害を与える。  天文10年(1541)1月、尼子詮久、毛利元就の安芸郡山城攻めを断念。毛利元就、籠城5カ月。陶隆房率いる大内氏の来援など。//尼子経久や尼子下野守久幸は当初より郡山城攻めに反対。この尼子氏の敗戦により、芸備の国人を始め出雲国内でも三沢/三刀屋らの国人が大内氏に誼みを通じるようになる。  天文10年1月15日、大内水軍が尼子方の村上水軍と厳島神社の大鳥居前での戦いに勝利するとともに、大内勢が尼子方の安芸桜尾城主友田興藤に占拠された厳島を奪還。  天文10年1月16日、