峡の劔:第一章 峡(かい)(1)

「小説家になろう」へ投稿開始 from 2019.01.11

第一章 峡

「嵐気が見える。」
 一人の青年が頭上に広がる細く狭い碧空を見上げながら、何気なく呟く。
 畑とは言い難い急峻な斜面に鍬を入れていた老婆が耕作の手を止めて、細面で鼻筋の通った若者の端整な顔立ちに視線を移したあと、彼の視線を追うようにその先にある空を見上げた。
「今夜は激しい嵐になるかもしれぬ。」
 青年は仰首して、碧空に浮かぶ「嵐気」を漠然と見つめながら、老婆に語る。
「年寄りには何も見えませぬ。若様に見えている嵐気とはどのようなものですか。」
 老婆が若者の横顔に視線を戻して、問い掛ける。
「わたしにも明瞭に見えている訳ではない。碧空が微かに揺らぎ、ごく小さく細波立つような気配のようなものかな。」
 青年は老婆に優しく説明する。
 「若様」と呼ばれたこの青年は幼少の頃から、屡々、天候や季節の変化を予感し、具体的な言葉に変換した。その言葉がしばしば的中したため、この小さな集落の住人達は、いつの頃からか、青年の日常の呟きを聞き拾って、天災地変に備え、農事や催事の適切な時期を得た。
 この集落は、四国地方を南北に分断する険しい脊梁山脈の奥深く、西に向かって鋭利に尖った鏃のような形状を成す阿波国の、鏃で言えばその先端付近に位置する祖谷・貞光の秘境にあって、霊峰剣山を直上に望む山塊の中に、ひっそりと佇む。
 集落の両側には急勾配の斜面が迫る。
 古来、山々に囲まれた地形を「峡(かい)」と呼ぶ。
 この集落の僅かな住人達は、いつの頃からか、自分達の住む山嶺に囲まれた小さな土地を「峡」という地形名称で呼ぶようになった。
 峡の狭い碧空は、青年の呟き通り、夕刻から次第に低い雲に覆われ、雨天に転じたあと、夜半、颶風を伴った豪雨に変わり、早朝まで衰えることなく滝のように地面に降り注いだ。
 翌朝、未明まで荒れ狂った暴風雨は終息し、再び透き通った碧空が峡の狭隘な頭上を覆う。
 周囲の山々に視線を向けると、巨木が根元から薙ぎ倒され、山相の険しい斜面が崩壊して、赤茶色の山骨が焼け爛れたように露出し、泥土が大蛇の這った跡のように延々と流れ落ちる。それらの土石流の一つが、峡の住民が信仰してきた祠に達して、小さな堂宇ごと呑み込み、押し潰した。
 堂宇の背後には岩盤をくり抜いた洞穴があり、その奥に小祠の本尊としてこの集落に伝承される一本の宝剣が厳重な結界の中に祭祀されていた。
「祠がこのような災厄に見舞われるなど聞いた事がない。」
 住人達が跡形も無く崩壊した小祠の周囲に集まり、不安げに話し合いながら、総出で崩土を取り除き、夕刻までに小さな洞穴の入口を捜し出した。一人の老人が曲がった腰をさらに屈めて洞穴の入口付近に張り巡らされた結界の奥に鎮座している宝剣の無事を確認するために洞穴に入る。暫くして、洞穴の最奥部から、
「ない。」
という叫声が響く。その後、さらに住人一名が峡から消えたことが判明する。
 峡は、
―甲、乙、丙、丁、戊。
の五つの部(ぶ)から成り、それぞれの部は十世帯前後の一族郎党により構成され、世襲の丞(じょう)がこれを束ねる。峡全体の問題については、五人の丞が合議するが、五つの部の中にあって、特に「甲丞(こうのじょう)」は筆頭の家格とされている。
 五人の丞が甲丞の屋敷にある広間に参集し、襖を固く閉ざして、忽然と消滅した峡の御劔と住人に関する対応を合議する。昨日、嵐の到来を予言した青年が広間の外で結跏趺坐を組み、広間に近付く気配を警戒する。普段の合議であれば、広間から漏れる丞達の声が青年の耳朶に微かな空気の振動になって流れ込むが、この夜の合議はことさらに深沈としている。
 四半刻ほどが経過する。
「清太。」
 甲丞の嗄れた声が廊下で控えている青年の名前を呼ぶ。
 青年が襖を開けて、広間に入る。
「俗世に下り、御劔を探せ。」
 甲丞が、他の丞を前にして青年に命じる。清太と呼ばれた青年が頓首する。
 丙丞(へいのじょう)が、
「峡から消えた丙部の兎吉については亥介と総馬が行方を追います。御劔の探索についても言い含めておきますゆえ、よきようにお使い下さい。」
と言いながら、清太に小さく頭を下げる。
「清太が頭(かしら)となり、弥蔵と亥介、総馬とともに畿内に向かえ。畿内では、当面、亥介と総馬が御劔と兎吉の行方を探る。清太は弥蔵とともに、以前から申し渡していた峡の仕事に就け。」
 甲丞が当面の行動を具体的に示す。清太は、御劔や兎吉の事件がなくとも、近々、峡から俗世へと下りることになっていた。
「もし、兎吉が手向かうようなことがあれば、遠慮なくお切り捨て下さい。」
 丙丞が眼元に濃い陰影を作って、低声で清太に依頼した。
 小さな集落だけに部が違うとはいえ、清太は、亥介や総馬、さらには、消息を絶った兎吉とも面識がある。勿論、擦れ違うことがあれば挨拶を交わし、峡の祭礼では清太よりも一回りほど年長の総馬や兎吉の世代が年少者を束ねる世話役として丞の指示のもと祭礼全体を取り仕切る立場にある。清太は幼少の頃、彼らの堂々とした雄姿を羨望に似た想いで仰ぎ見たこともある。そういう出来事を思い出すと、
―兎吉を切り捨てる。
という指示は清太の心中を暗くする。清太はその苦味の強い感情を深い呼吸とともに飲み込んで、冷静な口調で、
「承知。」
とだけ返答する。
 清太は四人の丞を玄関まで見送ったあと、広間に戻る。
「お前が初めて峡を旅立つ門出のはずだったが、難儀なことになった。」
 その口調からは甲丞としての重圧感は消え、嫡孫を労る心情が滲む。直後、小さく咳(しわぶき)を発して、威厳のある口調に戻る。
「あの御劔は峡を守護する霊剣。そして、御劔を守り伝えるのは甲丞一族の重要な使命じゃ。」
 清太は僅かに不可解の表情を浮かべ、ことさら荘厳とした口調の祖父を、見つめ返す。甲丞が大きく息を吐いたあと、
「この物語は俗世に下りるお前への餞(はなむけ)にするつもりだった。」
と前置きして、歴代の丞達に連綿と語り継がれてきた峡と御劔に関する伝承を語り始める。

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