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今日は軽くラン!

最近、平日のランが不足しているためか、心なし、お腹の贅肉が再びつき始めたような気がしています。 しかも、膝が痛くなり、週末に距離を稼ぐという作戦も難しくなりつつあるので、平日の朝、膝が痛くならない程度の距離を小まめに走る作戦に変更しようと、本日より朝ランを再開しました。 3kmくらいを8分/kmくらいのペースでゆっくり走って膝に負担をかけない程度に頑張りたいと思います。  ちなみにそれくらいで走っても、拙者の体重ならば、200kcalくらいは消費できるので、5日間走れば1,000kcal、1週間走れば1,500kcalくらいにはなります。  最近、週末だけ10km〜20kmくらい走ることが多かったですが、それだと1週間の消費カロリーは1,500kcalくらいなので、消費カロリーとしてはほぼ等価くらいです。 ただフルマラソン挑戦への道のりは遠退いていくのが、少し辛いですね(-_-)/~~~ まあ、大阪マラソンは落選しましたし、ここは膝の治療に専念したいと思います(^_^ゞ

磁場の井戸:第一章 想い(五)/長編歴史小説

 天正十年四月初旬、新緑が漸く目立ち始める頃、高松城の宗治のもとに城の東南方、高松城から肉眼でも明瞭に見える程の距離にある吉備津宮の神主堀家掃部が訪れた。  堀家掃部は秀吉からの誘いの書状を宗治に差し出した。 二人は武士と神官の違いはあれ、近隣のよしみで、旧知の間柄であり、堀家掃部はこの書状を秀吉方から頼まれても、 「無駄である。」 と言い、何度もこの使者を拒絶した。しかし、抗しきれず、仕方なく高松城まで秀吉からの書状を携えるのみの役目を引き受けた。  書状には宗治に対して備中一国を、傍らの副将中島大炊介に備後一国を宛行うという望外な恩賞の言質が認められていた。宗治はその書状に一通り目をとおし、読み終えたままの姿で、傍らの中島大炊介に手渡した。 大炊介もその書状に目を走らせた。そして、再び宗治の手に書状を戻した。宗治はそれを丁寧に元あった封書の中に収め、傍らの中島大炊介にチラリと目線をやった。大炊介はその目線に力強く頷き返した。宗治は再び堀家掃部に向き直り、大きく息を吸い、それをゆっくりと吐き出しながら、静かに言った。 「筑前守殿にお伝え願いたい。丁重なお誘い、誠に忝なく存ずる。筑前守殿、さらには織田殿にはそれがしこれまで全く遺恨はござらんが、毛利家から被った恩、忘却しがたく、義において、御味方に馳せ参ずることできかねる。向後、一切のお誘いは無用の事と思し召しいただきたい。」 堀家掃部の目を真っ直ぐに見つめ返しながら、宗治は封書ごとその書状を破り捨てていた。堀家掃部は愁眉を開いたように笑った。 「それでこそ、宗治殿にございます。」 宗治は堀家掃部に微笑みだけを返した。堀家掃部は使者としての使命を果たせなかったことを、むしろ喜ぶかのように、揚々として高松城を後にした。

左膝がヤバそうです(>_<)

本日、1週間ぶりにラン。 前回、左膝の外側に違和感と痛みがあり、1週間の休養をとってみました。 出発して3kmくらいまでは膝がまた痛みだすと怖いので、7分/kmくらいのゆったりペースでラン。ここまでは何の違和感もなく、快調にラン。 しかし、5km越えたところ辺りで左膝の裏側というか外側に鈍い痛みが走りました。 歩いたり、止まったりしていると痛みはないのですが、走るとすぐに痛みが再発します(>_<) 結局、残り2kmはほぼ歩きになりました。この運動量だと、太ってしまいそう。 ヤバイなーぁ(´д`)

病院と調剤薬局の共存共栄と効率性

先日、早朝に街中をランしていて、ふと、病院と調剤薬局が隣接しているのが、目に止まりました。 今はかなり小規模な個人病院でも近くに調剤薬局があって、診療した後、調剤薬局に行って、薬を貰うのが一般的になりました。  しかし、小さな個人病院にも、それぞれ一つずつ調剤薬局が付属するような形になっているのは、国民経済的に見て如何なのでしょうか。 我々患者側としては、病院内で薬をもらうことができて、清算も一括でできる方が手間がかかりませんし、病院から一度外に出てわざわざ調剤薬局に行かなければならないのは、なんとも不合理です。  また、病院や薬局側から見ても、密接度の高い両者にわざわざ別の敷地と建物を構えるのは、相当な経費増加に繋がっていると考えられます。  この経費は健康保険料の浪費に繋がっているような気がします。 この枠組みは病院側にも患者側にも恩恵がないように思います。誰も幸せを感じることがない枠組みはありえないと思いますので、誰かが利益を得ているのでしょう。 しかし、誰が利益を得ているにせよ、この病院と調剤薬局分離のシステムは不合理には違いありません。  税と社会保障の一体改革(一体改悪かもしれませんが…)の中で是非議論して、高齢者を含めた全体医療費の低減を目指していただきたいものです。

うどん県の風土病(?)

 Yahooニュースのヘッドラインにこんな記事が。。。 ========================== 糖尿病:有病者と予備群、県成人男性の4割超 全国平均上回る 原因や背景分析へ/ 香川 毎日新聞 6月9日(土)15時58分配信 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20120609-00000277-mailo-l37  県が昨年実施した「県民健康・栄養調査」で、成人男性の42・6%が、糖尿病の有病者またはその予備群とされ、全国平均(09年調査)より約12ポイントも高かったことが分かった。県民の糖尿病死亡率は全国的にも高く、県は今後、原因や背景の分析などに取り組む。【馬渕晶子】  調査は、県の健康増進計画(01年度~今年度)を評価するとともに、次期計画(13年度から)策定の前提となる基礎データを得るために実施。国が毎年行う国民健康・栄養調査の項目に県独自の生活習慣アンケートを加え、5年に1回程度実施している。  糖尿病については今回初めて調べた。県内から抽出した約680世帯の1843人が対象で、血液検査には407人(27・3%)が協力した。  血液検査では、血糖値と相関関係があるとされる血中ヘモグロビンA1c値を調べた。その結果、男性は23・8%が有病者(ヘモグロビンA1c値6・1以上か、治療薬の服薬者)、18・8%が予備群(同5・5以上6・1未満)に分類され、合わせると42・6%に上った。特に60代は52%と過半数を占めたほか、70歳以上は64・6%と、全国平均(4割前後)より20ポイント以上高かった。一方、女性は有病者が8・8%、予備群が10・1%の計18・9%と、全国平均より約6・5ポイント低かった。  県は今年度、糖尿病対策に1700万円を計上。専門家らによる検討会を設置し、要因分析する。また、小中学生対象の成人病予防検診(血液検査)の費用を半額助成し、市町からデータを集め、子どもの生活習慣から把握していくとしている。  県では、10年の人口動態統計で糖尿病死亡率が全国5位、08年患者調査で糖尿病受療率が全国1位となっている。 ==========================  香川県= うどん県 だけあって、やはり炭水化物の取り過ぎが原因でしょうか。  それとも讃岐男は運動不

950(1555)_==弘治1年==(最新版)

>_<あくまでも司空流の「こうかも」年表ですので、誤りがあっても司空は一切の責任はとりません。>_< >_<ご利用に際しては、解説・注意をご確認の上、各人で十分に史実をご確認ください>_<  天文 24 年 (1555) 、この年 10 月、弘治に改元。  天文 24 年( 1555 )、尼子晴久(詮久)が国内の動乱や大内/山名の侵攻を退けたことを感謝し、出雲大社に出雲で 2 百貫の地を寄進。  弘治 1 年 (1555)1 月 14 日、長尾景虎が、安田城 ( 柏崎市城の組 ) 城主安田景元に柿崎景家や琵琶島城衆らと北条城を攻略するよう命じる。  弘治 1 年 (1555)2 月 3 日、長尾景虎の奉行大熊朝秀、直江実綱、本庄宗緩が、安田景元に起請文を差し出す。  弘治 1 年 (1555)2 月初旬、長尾景虎が、善根 ( 柏崎市善根 ) に出陣し、北条城攻撃の陣頭指揮をとる。 // 武田氏の援軍はなく、北条高広 ( 天文 23 年 12 月に上杉に謀反 ) は景虎の軍門に下る。  天文 24 年 (1555)4 月 12 日、本願寺証如 ( 天文 23 年 8 月逝去 ) が、朝廷から法眼の僧位を授かる。  天文 24 年 (1555) 、尾張守護代の織田広信が、清洲城に同居する守護斯波義統を織田信長に通じたと理由で誅殺する。信長は叔父織田信光と謀って、主筋にあたる広信を誅殺し、清洲城を奪って自分の居城とする。  天文 24 年、長尾景虎が、越後兵を率いて信濃に入り、善光寺に布陣。また、越前の朝倉義景に対して北国の門徒を牽制するよう、書状で依頼。  天文 24 年 4 月 24 日、甲斐の武田晴信が、長尾景虎の信濃侵攻を受けた出陣を前に、石山本願寺へ正室 ( 三条公頼の娘で、その実妹が顕如の婚約者 ) の使者を出し、門徒衆に越後を突かせて、景虎の背後を脅かすよう依頼。 // 慶寿院 ( 顕如の祖母 ) はこれを躊躇うが、加賀では教芳らが越前朝倉討伐で鼻息が荒い。  弘治 1 年 (1555)7 月、長尾景虎が精兵八千を率いて信濃国川中島に出陣。 // その後、善光寺背後の横山城 ( 長野市 ) を本陣として、武田氏の旭山城 ( 長野市 ) を攻撃。  弘治 1 年 (1555)7

950(1569)_==永禄12年==(旧版)

>_<あくまでも司空流の「こうかも」年表ですので、誤りがあっても司空は一切の責任はとりません。>_< >_<ご利用に際しては、解説・注意をご確認の上、各人で十分に史実をご確認ください>_<  永禄12年(1569)、尼子氏と但馬の山名氏が同盟を結ぶ。  永禄12年(1569)1月4日、三好三人衆並びに斎藤右兵衛太輔竜興、長井隼人ら、南方の諸浪人を催し、薬師寺九郎左衛門を先鋒として、将軍足利義昭の御座所六条に取り詰め、門前を焼き払い、寺中に乗り入れようとする。(三好三人衆とは三好長逸らで、堺の後援を受ける。このとき、六条に立て籠もる武将は、細川典厩・織田左近・野村越中・赤座七郎右衛門・赤座助六・津田左馬丞・渡辺勝左衛門・坂井与右衛門・明智一兵衛・森弥五八・内藤備中・山県源内・宇野弥七。斎藤竜興は後に越前に下って、朝倉義景を頼ったが刀根山の合戦で戦死。しかし、竜興の弟(斎藤新五郎≒織田信孝の家老斎藤玄蕃允利堯か?)は道三の孫であることから、信長はこれを助けて、斎藤家の跡を継がせるため、生活をできるだけの領地を与えた。)  永禄12年(1569)1月4日、薬師寺九郎左衛門(三好方)が山県源内、宇野弥七両人を討ち取る。  永禄12年(1569)1月5日、三好三人衆が京都に乱入し、足利義昭の住む六条本圀寺を襲う。(この際、細川典厩藤賢・津田左近・赤座七郎右衛門・赤座助六・津田左馬丞・渡辺勝左衛門・明智一兵衛・森弥五八・内藤備中守および若狭衆の山県源内・宇野孫七らが切ってで、後巻きとして伊丹・荒木・茨木・細川兵部大輔(藤孝)・三好左京大夫らがかけ向かい、桂川辺りで1戦に及んで大利を得た(原本信長記)(1/6か)。)  永禄12年1月、三好左京大夫、細川兵部太輔、池田筑後、六条将軍御座所に救援に向かう。  永禄12年1月、京都桂川あたりにて、織田軍と三好軍がぶつかる。織田勢は、細川兵部太輔、三好左京大夫、池田筑後、伊丹、荒木、茨木ら。三好勢のうち、高安権安、吉成勘介、同弟、岩成弥介、林源太郎、市田鹿目介らを討ち取る。  永禄12年1月6日、織田信長、三好三人衆が京都に乱入した旨の飛脚の知らせをうける。(この日、大雪)  永禄12年1月6日、織田信長、大雪の中、美濃岐阜城を出発。  永禄12年1月8日、織田信長が