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焼売(シュウマイ)に挑戦

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最近、あまり新規開拓をしていなかったので、一念発起して、新しい料理に挑戦! 先日、喫茶店でオレンジページを読んでいたところ、レンジで簡単に作れる焼売というのがあったので、それを拙者なりにアレンジしました。 材料(五人分くらい)は、 ○豚ひき肉…500-600g ○玉ねぎ…1ヶ ○焼売の皮…70-80枚 ○もやし…2袋 ○キャベツ…半玉 ○片栗粉 ○塩・胡椒 ○胡麻油 です。 玉ねぎをみじん切りにして、適量の塩コショウ、片栗粉と一緒に豚ひき肉と混ぜ合わせます。拙者はこの時に榎茸を細かく刻んだものを入れて、嵩を増やします。 耐熱容器の上にキャベツのざく切りともやし(キャベツやもやし以外にも比較的水分が多いお野菜ならオッケーだと思います)を敷き、その上に焼売1個分の大きさに丸めた具材を並べていきます。 並べた具材の上に、水(普通の水です)に潜らせた焼売の皮を1枚ずつ載せて、焼売らしい形に整えます。焼売は上が開いているのが、普通ですが、このやり方だと上側は皮になります。 その上から濡らしたキッチンタオル(あの使い捨てのやつです)をかけ、さらにラップを軽く載せて、電子レンジに5-7分くらいかけ、そのあと2-3分蒸らしたらできあがり! 結構、綺麗に、しかも、美味しく仕上がって大満足\(^.^)/ 写真1枚目は電子レンジで蒸す前、2枚目は完成写真です。何となく焼売らしい感じはあるでしょう(^o^)/~~ 酢醤油&辛子がサイコー! お酒によく合いまーす! 追伸 翌日、弁当のおかずにしたのですが、1日冷蔵庫で保存すると、皮がふにゃふにゃになって見た目があまり宜しくはない感じでーす。

上原屋本店

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高松市内、国道を挟んで栗林公園の向かい側にある上原屋本店を訪問。 噂に聞いた所では、栗林公園の近くに昔から店を開いていたのですが、数年前に新しく今の場所に店舗を開いた(移転した)とのこと。(真偽は不明) 国道11号線からは南向き車線からしか入れません。地核にあるハロッズの通りが裏道になっているので、その道を上手く使えば、比較的すんなりと入ることができます。 駐車場は結構広いように見えるのですが、キャパシティは私の見た目ほどはありません。店内ももっと広いと想像していたのですが、意外と手狭。 週末の昼御飯時はいつも店の前に行列ができています。駐車場も満車になっていることが多く、食べ終えた人が出ていくタイミングに合えば、ラッキーという感じです。 店内はセルフ店らしいレイアウトです。 カウンターで、まず、目に入るのは、天ぷらを揚げている店員さんです。珍しく太刀魚の天ぷらがあったので、定番の竹輪天と合わせて、お皿に載せます。 うどんは、暑いので、冷やかけにしました。 ネギ、天かす、しょうがはセルフですので、適量をトッピング。 麺はとても腰があります。それにも増して、出汁がよし!いりこ出しがお好みの方にはこのお店の出汁はよく合うのではないかと思います。 出汁が感じられて、誠に美味でした。

磁場の井戸:第三章 水牢(八)/長編歴史小説

 そのころ、高松城の一室では宗治を始め、中島大炊助や末近信賀さらには鳥越左兵衛、難波伝兵衛、白井治嘉など宗治の主立った家臣が集まり、この水牢に抗う策を練っていた。どの表情も暗い。軍議は良策を見出せぬまま、沈黙が続いていた。その沈黙の中、宗治の脳裏に七郎次郎が山陽道を疾走している姿が浮かんだ。想像としてはあまりにも鮮明すぎる影像だった。宗治は自分の中に現れた七郎次郎の幻影に向かって、 (頼むぞ。) とだけ呟いていた。  七郎次郎は、宗治の心中の結像に違うことなく、初夏の山陽道を脇目も振らず、走り続けていた。あの雨以来、瀬戸内の街道筋は焼け付くような真夏の太陽に照らされ、多量の湿気を含んだ粘り着くような暑さが訪れていた。その粘性に富んだ空気を切り裂くように走る七郎次郎の着衣は、総身の水分を絞り出したかのように、たっぷりと汗を含んで、黒ずんでいた。着物の裾から滴る汗は、七郎次郎の後を慕うように、街道の赤茶けた地面に点々と続いた。  空虚が七郎次郎の頭の中を支配していた。高松城は近い。既に全身が極限の疲労状態に達していたが、それでも両脚だけは無意識に動き続けていた。彼の両足を回転させているのは、もはや、 (高松城の宗治様の元に書状を届ける。) ためでなく、ただ立ち止まらず走り続けるという意志だけだった。左脚が地を蹴れば、次に右脚で地を蹴るという行為の繰り返しの命令だけが、七郎次郎の体を動かしていた。  既に薄暮が備中の野を覆っていた。赤みの混じった太陽の光が街道を東へ上る七郎次郎の体を押していた。もう、高松城が見えてくるはずだった。七郎次郎は両脚の回転の速度を変えることなく、地に長く落ちた自分の影を追いかけ続けていた。  満月が煌々と森に降り注いでいた。高松城の北側の山稜の中、七郎次郎はゆっくりと起きあがった。ちょうど日が落ちた頃、七郎次郎は高松の北側の山稜に着いた。 城の北側には宇喜多や淺野弥兵衛などの軍勢が陣営していたが、城の南側に比べれば物陰も多く、七郎次郎はいつも城の北側の山稜から高松城へと忍び入った。  日は暮れたとはいえ、まだ敵陣の動きは活発だった。七郎次郎は森の中に分け入り、彼のみの知る洞穴に潜り込み、夜が更けるのを待つことにした。七郎次郎は湿度の高い洞穴の中で疲労を癒すために体を横たえた。眠気が襲ってくれば、それに任せて軽い旨寝を取ろう

磁場の井戸:第三章 水牢(七)/長編歴史小説

 高松城の豪雨が止んだ数日後、三原城の小早川隆景は厳しい表情で、宗治から届けられた書状を手にしていた。隆景の面前には、今、三原城に到着したばかりの七郎次郎が小さくなって座っている。本来なら隆景と同座できる身分でない七郎次郎は恐縮し、ただでさえ小さい体を折り曲げるようにして平伏していた。書状を取り次ぐことだけを七郎次郎は望んだが、隆景は強いて七郎次郎を座敷に上げた。  七郎次郎は隆景に言われるままに面を上げた。隆景から見ると、高松の湖水と敵の警戒の網を潜り抜けてきた七郎次郎の表情は、宗治の必死の覚悟が乗り移ったかのような羅刹のそれだった。  その鬼気迫る表情は、隆景の冷静な心の中に、一点の炎を投じた。七郎次郎の形相は、宗治と高松城の苦境を、有り余るほどに隆景に感じさせるものだった。隆景は、七郎次郎の表情と彼が携えてきた書状の内容を見比べ、書状を元の封書の中に戻した。そして、すぐさま筆をとり、宗治に当てた書状を認め、それを面前の七郎次郎に渡した。 「できるか。」 隆景が七郎次郎に向かって言った。七郎次郎は平伏したまま、小さいが、ハッキリとした声で、 「確かに。」 と返答した。隆景は強く頷いた。七郎次郎は、両手でその書状を受け取ると、それを懐にしまいこみ、平伏したまま、座敷を下がった。  既に出陣を躊躇する段階を越えたことを悟った隆景は、甥であり毛利家の当主である輝元宛に出師を促す書状を認めた。さらに続けて、兄である吉川元春に宛てた、至急の来援を求める書状に筆を走らせた。 (毛利全軍を挙げてこれを救わねば、毛利家は中国筋の諸将の信を失い、瓦解する。) 隆景は二通の書状の中で諄々と説いた。  これ以上の逡巡は、高松城を、そして、毛利家全体を窮地に陥らせるだけである事を悟らざるを得なかった。ただ、全力を尽くしての決戦という絵図面は隆景の胸中には存在しなかった。 (毛利家の保全のためには、一戦試みた上での条件付きの和平でなければ、秀吉とその背後の信長には受け入れられまい。) というところまで、織田信長という一個の巨人は、毛利というもう一方の巨人を追いつめるだけの、底力を蓄えていた。  二通の書状を書き終えた隆景は、傍目にはゆっくりと、急き立つ心を表面に表さぬように気を引き締め直した後、文机の前を離れ、部屋を後にした。気付いてみると自分の身体から不快なほ

950(1582)_==天正10年==(最新版)

>_<あくまでも司空流の年表ですので、誤りがある可能性がございます。>_< >_<ご利用に際しては、各人で十分に史実をご確認ください>_<  天正10年(1582)?月、法華寺の事件//明智光秀が信長の前で「われらも年ごろ骨折った甲斐があって、諏訪郡のうちはみな上様の兵だ」といったことを信長が怒り、詰問。(色々と疑わしい点あり)  天正10年(1582)1月1日、羽柴秀吉、播州勢を連れ安土に滞留。//信長に御祝言上のため。織田信長に豪勢な土産を準備。  天正10年(1582)1月4日、秀吉、播州勢を連れ、安土を発つ。//本拠姫路に戻るため。途中摂津吹田で茶人長谷川宗仁の接待を受け、船中で茶の湯を愉しむ。その日は尼崎で1泊。  天正10年1月(1582)5日、秀吉、姫路に到着。  天正10年1月7日朝、明智光秀、津田宗及・山上宗二と茶会を催す。  天正10年1月15日朝、明智光秀、博多宗室・津田宗及と茶会を催す。  天正10年1月18日朝、明智光秀、津田宗及・銭屋宗納・山上宗二と茶会を催す。  天正10年1月、宇喜多氏が宇喜多直家の喪を発表。  天正10年1月下旬、小早川隆景が備中国境七城の城主を三原城に招く。//織田氏と毛利氏の勢力の最前線。  天正10年1~2月頃、秀吉、堺の商人に中国地方の米の買い占めを命じる。  天正10年2月、明智光秀が武田勝頼に信長に謀反する旨の書状を送る。(甲陽軍鑑より。これは疑わしい。)  天正10年(1582)2月12日、織田信忠が武田勝頼討伐のため岐阜を出陣。  天正10年2月12日、蜂須賀正勝、黒田孝高、3千3百を率いて、備前宇喜多と打ち合わせ児島郡常山城(城主戸川平右衛門)を攻略し、備中の国境に布陣。  天正10年2月、織田信長、長宗我部元親に対して、土佐・阿波二国を安堵し、その他を信長が召し上げる旨を通知//長宗我部元親はこれに怒る。元親は独力により既に四国を大略制覇。  天正10年3月1日、清水宗治、嫡男源三郎に宛て手紙を送る。//同年4/2に秀吉の備中乱入があることを予測した文章がある。  天正10年3月2日、織田信忠率いる織田勢が遠江高遠城を落とす。  天正10年3月5日、織田信長が武田勝頼討伐のため安土を出陣。同年2月に信忠が先発。

磁場の井戸:第三章 水牢(六)/長編歴史小説

 しかし、その数日後、高松城は湖水に浮かぶ孤城と化していた。  (まさか、この世に湖を出現させることなどできるはずがない。) 宗治でさえ、そう思い続けていた。  しかし、案に反して、城一帯の野は水面と化した。織田勢が足守川に築いた堰を切った天正十年五月十三日夜半のこと、これまで一滴の雨ももたらさなかった空に突如として黒い雲が現われ、直後より豪雨となって備中の野を襲った。強風を伴った雨は屋根を破らんばかりに城全体とその足下の野面を容赦なく打ちつけた。  城方はおろか織田勢までもが、最初、気まぐれな通り雨だと思った。だが、この雨は、今まで空が貯え続けてきた全ての水分を吐き出すような勢いで、止むことなく野を叩き続け、翌日には、城の周囲一帯は見渡す限りの水を湛えた。それでも、雨は降り止まず、突如備中の野に出現したこの湖は、突然の湿舌がもたらした雨滴を蓄えながら、その嵩を増し続けた。  数日後、途切れることなく降り続けた豪雨が上がった。備中の野は今までの雨が嘘のような晴天に包まれた。しかし、既に高松城下の水位は、城から外への連絡を絶つのに十分なまでに達し、城下の沼沢や田畑は水面下に沈んでいた。秀吉は頃合いも良しと見て、かねてより浅野弥兵衛に命じて作らせていた大船三艘を高松城の周囲に出現した湖上に浮かべた。三艘の大船からは昼夜を分かたず、高松城に向かって大筒が放たれ、以後、城兵を悩まし続けることとなった。  織田勢がこの僥倖に沸き返る中、秀吉は蛙が鼻の本陣から、遠くに見える高松城を眩しそうに眺めていた。 「皆のもの、見よ。湖水の城じゃ。美しいものじゃ。」 秀吉は玩具を作り終えた子供のように燥いでいた。燥ぐと秀吉の顔は猿のように愛嬌がある。傍らの謀臣黒田官兵衛はその天真爛漫とも言える表情を横目に見ながら、深く感じていた。 (この天運、この男は何かに憑かれ、そして、何かに護られている。この運は、天がこの男に何かを求め、与えているのではなかろうか。)  高松城の詰の丸で同じ事を考えている男がいた。宗治である。 (なぜ、こうなったのか。) そんなことを考えても仕方がないことはわかっていた。しかし、今はそれ以上の事を考えることができなかった。なぜ、秀吉はこの備中の野に湖を出現させることができたのか。それは「天運」という言葉でしか説明することができないほどの、幸運

余談:出雲国を小旅行

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尼子氏の本拠である月山が足立美術館から近そうだったので、足を伸ばして見ましたが、遺構のようなものはすぐには見当たりませんでした。 月山の山中に分け入れば、何かあるのかもしれませんが、道路沿いには目立ったものはありませんでした。 山中鹿介幸盛の生家や、新宮党の屋敷の場所などが簡単な看板で示されていて、少し歴史情緒を感じました。 写真は道の駅月山(というような名称だったと思います)の写真です。 あと、米子に行ったので、ベタぶみ坂に行ってみたいと思ったのですが、時間もなく、また、渋滞しているという情報でしたので、断念しました。