950(1568)_==永禄11年==(旧版)
>_<あくまでも司空流の年表ですので、誤っている可能性があります。>_< >_<ご利用に際しては、解説・注意をご確認の上、各人で十分に史実をご確認ください>_< 永禄11年(1568)初め頃、越中の椎名康胤が一向一揆と結び、越後を脅かしたため、上杉輝虎が椎名方の松倉城を攻撃し、さらに神通川を渡って放生津(富山県新湊市)に陣を進める。 永禄11年(1568)2月、織田信長が、北伊勢に出陣し、神戸城に籠る神戸友盛を説いて神戸氏を下し、信長の三男信孝を友盛の養子とする。さらに、安濃津の長野氏の家臣が主人具房を追い、信長の弟信包を養子とする。//信長は北伊勢8郡を手中に収める。 永禄11年(1568)2月8日、摂津富田にいる三好三人衆方の足利義栄が、征夷大将軍の宣下を受け、14代将軍となる。 永禄11年(1568)3月16日、上杉輝虎が、椎名方の守山城(別名森山城、二上城、海老坂城、師子頭城:富山県高岡市東海老坂)への攻撃を開始。 永禄11年(1568)3月25日、上杉輝虎(越中国椎名氏を攻撃中)のもとに鳥坂城主中条藤資から、本庄城(村上市)城主本庄繁長が武田信玄の誘いに乗り謀反した旨の急報が届いたことを受け、急遽、春日山城に戻る。//本庄繁長は、揚北衆の中条藤資、色部勝長、黒川実氏や鮎川盛永らを味方に誘うものの、断られた。武田信玄は、本庄繁長を救援するため、本願寺勢力と連携し、勝興寺(富山県高岡市)に越後への侵攻を依頼しつつ、自ら海津城(長野県長野市)を出陣し、7/10には上杉方の飯山城(長野県飯山市)を攻撃した。 永禄11年4月、足利義秋が、越前一乗谷に下向した関白二条晴良から、義秋を将軍にとの意向を伝えられ、義秋がこれを拝受し、名を義昭と改める。//二人の将軍が並立。2月8日参照。//義昭は、朝倉義景が動かないため、上洛の援助を要請する内書を織田信長に発出。 永禄11年6月、吉川元春/小早川隆景ら豊後大友宗麟との対決のため北九州へ出陣。出雲国人衆米原/三沢/三刀屋らも動員。出雲大庭大宮(神魂(カモス)神社)の神官の一族秋上三郎左衛門尉綱平、毛利方の主力が北九州に出陣したことを京都の山中鹿之助/立原久綱らに通報。 永禄11年6月23日、足利義昭,細川藤孝・上野清信を使者として,